『アウシュヴィッツの争点』(27)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.6.2

第2部 冷戦構造のはざまで

 『ショア』(ヘブライ語で「絶滅」)という上映時間九時間半の、まさに超々超大作のフランス映画をやっとのことで全部、一九九五年三月二三日に見おえた。最初の試写会は招待券をもらったのだが、その後の上映会も入場料は無料だった。「『ショア』公開に向けての有志の会」作成の「参考資料」によると、日本語版の製作費はすべてフランス側の組織が負担している。それだけの費用を掛けても日本人に見せたいと願っている組織、または人々の存在を意識しないわけにはいかなかった。

 内容は、「生き証人」の証言を重視したというよりも、ほとんどそれだけ。「ユダヤ人の強制移住、収容、絶滅作戦の全容を、記録映像や資料に頼らず、ひたすら関係者の証言だけを通して明らかにするため、十一年の歳月を費やして製作された」という解説である。最後は見直し部分もふくめて二日掛りの連日映画観賞だったが、短い休憩をはさんで五時間づつの苦行である。目はもとよりのこと、尻と腰まで痛くなって、後遺症が四、五日つづいた。

 おなじ「参考資料」によると、監督のクロード・ランズマンは『現代』誌の編集長だが、映画づくりをはじめた理由は「イスラエルの存続支持」の主張にあった。この映画は、「反植民地闘争を共に闘った仲間が硬直した言辞と態度に立てこもり、アルジェリアの独立を支持した上でイスラエルの存続を支持することが可能だということを頑として理解しようとしないのに対する、ランズマンの反論でもあった」というのだ。

「アルジェリアの独立支持」、すなわちアラブの歴史的領域への西欧の侵略行為反対と、「イスラエルの存続支持」、すなわちおなじくアラブの歴史的領域への西欧のバックアップによるユダヤ人の侵略行為賛成とを、ひとりの人間の頭のなかで両立させるのはむずかしい。そのためには、「ホロコースト」という「まったく独特の歴史的悲劇」を根拠にして、「イスラエルだけは歴史的な例外である」と主張しなければならないのである。

 わたしは事前に、『ショア』についてのフォーリソンの論評記事(『歴史見直しジャーナル』88春、以下「論評」)を読みはじめたが、一ページの半分だけで中断していた。なぜかというと、むしろ最初は自分の目だけで直接たしかめてみたいと思ったからである。観賞中に疑問点をチェックしておいてから、再び「論評」に目を通した。

「論評」の批判は強烈である。最初に読んだ半ページにもすでに、「一九四三年のワルシャワ・ゲットー蜂起の指導者、メレク・エデルマンが、“退屈”、“面白くない”、“失敗作”(ルモンド85・11・2)」と批評しているとか、この映画に賞を与えたフランスのユダヤ教財団の事務総長が「絶望の果てに」、この映画を見るように「人に奨励したり、嘆願したりするのは中止する(ハモレ86・6)」と宣言したとかいう活字報道記事が採録されていた。

 つぎの半ページでフォーリソンは、この映画が写しだしたのはランズマンの製作意図とはまったく逆に、「ガス室」については「なんらの証拠もなく、証人もいない」という事実の証明なのだと断言している。

「論評」はまだ七ページつづいている。映画全体の批判については、わたし自身の感想もふくめて別の機会に論じたいが、特徴的な点だけを紹介しておこう。

 あるのは現在の風景と現在の言葉と、だれの目にも戦後に作られたことが明らかな「虐殺」を記念するモニュメントの映像の繰り返しだけだった。フォーリソンによれば、資金提供者の筆頭はイスラエル首相だったメナヘム・ベギンだったし、怪しげな「告白」をする元ドイツ親衛隊員たちは「三〇〇〇ドイツ・マルク」で雇われていた。

 トレブリンカ収容所の「理髪室兼ガス室(?)」で収容者の髪を刈ったという「生き証人」のアブラハム・ボンバは、その部屋の広さを「四メートル四方」だという。日本間なら一〇畳弱になる。ところが、このボンバの「証言」は活字(映画と同名の『ショア』)にもなっているが、この一〇畳弱の狭い部屋に、理髪師が一六、七人いて、ベンチがある。そこへ六〇から七〇人の裸の女性と数が不明の子供たちがはいってきて、さらにまた八分後には、前の客がでていかないのに、また七〇から八〇人の裸の女性と数が不明の子供たちがはいってくるのである。子供の数を別にしても、最低一四六から最高一六六人が一〇畳弱の部屋にはいったことになる。しかも、そのすべての客の髪の毛を刈り取る所要時間は一〇分だというのだ。

 フォーリソンは、この引退してイスラエルに住む元理髪師、ボンバの証言内容を「すべて純粋なナンセンス」と断定する。ボンバ自身については、トレブリンカのことを書いた本のページ数をしるして、その記述に「霊感をえた神話マニア」である可能性が非常にたかいと主張する。物語の内容が似ているのであろう。「論評」の最後にフォーリソンは、この映画のような「ショア・ビジネス」への若いイスラエル人の拒否反応を「公式神話の拒絶」の表われとして評価している。なぜなら、「平和と和解の実現のためには」、これまでのような「神話」の押しつけとは「ちがう行動が要求されている」のだからである。

 本来は活字メディアの編集者だったランズマンが映画による「ホロコースト」描写に力をいれるにいたった理由について、フォーリソンは、一九八二年六月二六日から七月二日にかけてソルボンヌで開かれ、ランズマンも参加していた「有名な自由討論」の場でのできごとを指摘している。そこでの討議でランズマンをふくむ絶滅論者たちは、いわゆるユダヤ人絶滅計画については、なんらの命令書も予算もなく[ここまではすでに争いのない事実の確認にしかすぎないが]、さらにフォーリソンの表現によれば、「ガス室」の写真もなく、「ガス室」として見学者が案内されてきた部屋はすべて「いんちきのまがいもの」だったという「残酷な事実に直面」してしまったのである。

 フォーリソンは、ランズマンが『ショア』を製作した動機についての、その後の情報を、つぎのように要約している。

「聞くところによると、いかなる証拠も記録もないことに気づいたことが、情緒的なフィルムといくつかの“証言”のモンタージュによって、見直し論者に応酬しようというランズマンの決意を強めたのだそうである」

 以上のようなフォーリソンの情報分析と批判が当たっているならば、『ショア』ほど政治的な背景と目的を背負わされた映画は、世にもまれだといわなければならない。

 だが、ひるがえって考えなおすと、ランズマンだけではなく「イスラエルの存続支持」の絶滅論者たちが一様に「ホロコースト」を特別のものとして位置づけようとするのは、もしかしたら本末転倒の作業なのではないだろうか。歴史的因果関係は逆なのではないだろうか。つまり、イスラエルという人造国家の建設計画の方が、特別の、およそ異例のことだったことにこそ、歴史のゆがみの決定的な契機をもとめるべきなのではないだろうか。しかも、このもうひとつの狂気の計画は、世間周知の狂気の独裁者、ヒトラーの登場よりもはるかに以前から進行していたものなのだ。

 以下、第2部では、よりおおきな歴史の流れのなかに「ホロコースト」物語を位置づけなおしてみたい。


第3章:発言処罰法という「新たな野蛮」の裏の裏の背景
(28)「権威に弱い独マスコミ」と、ドイツという国の真相