『偽イスラエル政治神話』(19)

第2章:二〇世紀の諸神話

電網木村書店 Web無料公開 2000.3.3

第2節:ニュルンベルグの正義の神話 7

(b)証言‐3

[芸術作品による歴史的事実の歪曲]

 これまでのところでは、優れた能力を持ち、完璧に正しい信念を抱く芸術家たちでさえも、この問題に関しては、手前勝手で、間違った数字しか与えられていなかった。

 だが、それでも、傑作を生む妨げにはならない。

 たとえば、ロベール・メルルの小説、『処刑が私の仕事』(52)の場合には、アウシュヴィッツの元司令官、ホェスを一人称で登場させて、その経歴を再構成している。ロベール・メルルは、やはり、偽の証人による手前勝手な数字を使いながらも、時折、スタンダールにも比肩し得るような描写の冴えを見せている。

《……検事が叫んだ。〈あなたは、三五〇万人も殺したんだな!〉

 ……私は、自分にもしゃべらせてくれ、と頼んで、こう言った。〈失礼ですが、私は二五〇万人しか殺していない〉

 すると部屋の中には、いまいましそうな呟きが広がった。……しかし、私は、不正確な数字を訂正する以外のことはしていないのだ》(『処刑が私の仕事』52)

 映画の分野では、見事な芸術的技巧によって微妙な味を出すアラン・レネの作品、『夜と霧』が、ナチの蛮行とともに、殉教者についての悲痛で忘れ難い印象を与えてくれるのだが、手前勝手な数字を持ち出すことによって、真実を曲げ、変質させている。ユダヤ人の犠牲者が、アウシュヴィッツだけで九百万人だというのだ!

 実に多くの芸術作品、とりわけ津波のような映画、テレヴィの映像作品が、この種の、ヒトラーの犯罪の意味の逆転に貢献してきた。解放以後、溢れるほどの数の映像作品が映し出された。それらを何度も見た丸々一世代の人々は、ナチと最も効果的に戦った人々の功績を、自分自身が証言し、判断できると思い込むようになった。

 たとえば、『重水の戦争』という映画があった。この映画によれば、ジョリオ=キュリーとその仲間が、ノルウェイでナチから重水を奪ったという決定的な功績を挙げている。この重水があれば、ヒトラーは、世界で最初の原子爆弾を製造し、使用することができたということになっているのだが、それは本当だろうか?

 同じような疑問は、映画『鉄路の戦い』に対してもある。鉄道従業員たちが、いかにしてドイツの輸送を麻痺させ、軍隊の集結を妨げたかを描いているのだが、本当に、そんな事ができたのだろうか?

『パリは燃えているか?』のような映画も沢山あった。この映画では、外側の参謀本部の役割について過大な評価を加えながら、パリの市民が自ら立ち上がって市を解放し、ドイツの総督、フォン・ショルティッツを逮捕し、降伏させたという筋書きになっているのだが、これも本当だろうか?

 その一方で、『エクソダス』とか、『ホロコースト』とか、『ショア』とか、その他、一連の脚色豊かな物語が、毎週のように涙を誘う映像をスクリーンに氾濫させたが、それらは何度繰り返されたのだろうか?

 いかにも、これらの人々が味わった“犠牲的”な苦難の方が、英雄的に戦った他のすべての人々の苦難よりも、比較を絶するほど苦しいものだったのだと言わんばかりの状態だった。

 ランズマンの『ショア』は九時間も続き、その間、われわれは、石の造型やら、延々と続く貨物列車が鉄道を走ったりする映像やらを、重苦しく迫る音響効果とともに見せ付けられる。ところが、数多い証言の中でも、トレブリンカの理髪師の話などは、一六平米の部屋に、六〇人の女性と一六人の理髪師が入るといった具合なのである!

 この“ショア・ビジネス”への出資者たちは、非常に寛大だった。何といっても、その筆頭はイスラエル国家である。メネヘム・ベギンは、この映画、『ショア』のために、八五万ドル[一ドルが一二〇円で計算して一億二百万円]を捻りだした上で、つぎのように語った。

《この映画には国益が関わっている》(『ザ・ジューイッシュ・ジャーナル』86・6・27)

[映像の“憎悪の日読祈祷書”が育む有毒の果実]

 映像作品の中でも、世論操作に最も貢献したのは『ホロコースト』である。

《テレヴィ・ドラマの『ホロコースト』は、歴史的な事実に反する犯罪行為である。作品の全体を貫くテーマは、六百万人の絶滅という大掛かりな事件に、ドイツ人全体が気付かなかったはずはないということにある。もしも,ドイツ人全体が知らなかったとすれば、それは彼らが知ろうとしなかったからなのである。だからドイツ人は有罪だというのである『リベラシオン』(79・3・7)[訳注1]

訳注1:巻「訳者解説」の末尾参照。右出典に若干の疑いがあるが「ママ」とする

 こうして、『憎悪の日読祈祷書』のような、有毒の果実が育まれる。

《これらの敵の代理人はすべて、わが母なる祖国の領域から送還されるべきである。われわれが、この措置を要求しはじめてから、すでに二年が経過した。われわれの要求は簡単かつ明瞭である。許可と十分な船である。それらの船が沈むことで起きる問題は、気の毒ながら! パリ市議会が負うころではない》(『パリ市議会日報』62・10・27)

 これは十分に考え抜いた提案だった。モスコヴィッチ氏は、一九六三年一月一五日に、彼自身が提起した名誉毀損裁判の際、つぎのように断言した。

《私は、フランスの敵が絶滅されていないことを、実際に残念に思った。……まだ残念に思っている》(『ル・モンド』63・1・17)

 小説も、この神話の流布を手伝った。

 ダヴィッド・ルセットの場合、ブッフェンヴァルト収容所からの解放直後に書いた『集中収容所の世界』と題する最初の本では、品位のある地味な味を出していたが、『われわれの死の日々』になると、文学的で巧妙な形式を用いてはいるものの、いわゆる集中収容所文学の典型となるような、ありふれた材料の寄せ集めに陥ってしまった。

 極端に至れば、『われらすべての名において』の著者、マーティン・グレイなどのように、自分が一歩も足を踏み入れたこともない収容所を描くために、フランスの大物作家をゴーストライターに雇ったりする始末である。さらには、セルジュ・クラルスフェルドが“発見”したと称する在郷軍人省の偽造文書に始まり、ノーベル賞[文学賞ではなくて平和賞]受賞者のエリ・ヴィーゼルによる事実無根の黙示録的空想にまで至る。ヴィーゼルが見たと称するのは、“彼がその目で見た”のであり、それは野外の穴から燃え上がる“巨大な火焔”なのであって、“その中に幼児が投げ込まれる”というのであるが、その当時、その収容所の上空から間断なく撮り続けていたアメリカ空軍の航空写真には、まったく火焔の映像が見当たらないのである。

 ヴィーゼルは、次第に強まる残酷さと狂気のクレッセンドの頂点で、こう付け加える。

《その後に私は証言を得たのだが、何か月も、何か月も、地面は止むことなく身震いを続け、そこから、血が、いつまでも、いつまでも、間歇泉のように吹き出し続けた》(エリ・ヴィーゼル『他人の話』82)

 この場合、ヴィーゼルは、バビヤール[訳注1]に関する“証言”を使っている。

訳注1:バビヤールは、ウクライナのキエフの北西に位置する涸れた渓谷の地名。ナチの武装親衛隊が、この渓谷で、一九四一年から四三年に掛けて一〇万人、一九四三年八月一八日から同年九月二九日に掛けて七万人を虐殺して埋めたと告発されており、イギリスに亡命したロシア人作家、A・アナトーリ・クズネッツォフの小説、日本語訳題名『バービィ・ヤール』や、ショスタコーヴィッチの交響曲一三番『バビヤール』などによって、欧米では広く知られている。しかし、この場合も、カチンの森と同様、すべてソ連政府の告発で証言以外の物的証拠はなく、かねてから疑問視されていた。本書でものちに紹介される航空写真の分析家、カナダ人のジョン・C・ポールによれば、アメリカの空軍が一九四三年九月二六日、つまり第二次の七万人虐殺の最中に撮影した航空写真には、地面を掘り起こした痕跡が、まったく見られない。

 これらの荒唐無稽な文学神殿の中心に祭り上げられているのは、世界的なベストセラーになっている『アンネ・フランクの日記』である。この非常に感動的な物語は、現実に取って替わり、ついには、神話を歴史に変装させる。

 イギリスの歴史家、デヴィッド・アーヴィングは、一九八八年四月二五日と二六日のトロント裁判に出廷し、アンネ・フランクの“日記”に関して、つぎのように証言した。

《アンネ・フランクの父親は、私との何度かの手紙のやりとりを経て、ついに、“日記”の手稿を専門的な研究所の鑑定に委ねることに同意した。私は、偽造の疑いが掛けれている文書については、いつも、こういう要求をしている》(トロント裁判記録)

 彼が鑑定のために“日記”の手稿を引き渡した研究所は、ドイツのヴィスバーデンにある警察の刑事犯に関する研究所である。鑑定の結論によると、アンネ・フランクの“日記”の一部はボールペンで書かれていたが、アンネ・フランクが死んだのは一九四五年だったのに、ボールペンが市販されるようになったのは一九五一年以後なのである[訳注の追加]。

訳注の追加:私自身が1998年1月にパリでガロディ裁判の際に会い、かなりの会話の時間をも得たフランスの文書鑑定家、元ソルボンヌ大学教授、ホロコースト見直し論の中心人物、ロベール・フォーリソンは、アンネ・フランクがアメリカのペンフレンドに出した葉書(LIFE誌の表紙)の文字と、“日記”の文字とが、まったく異なる点に注目している。実物の比較の映像は、私が発行している『歴史見直しジャーナル』23号(1998.11.25)にも収録した。興味のある方にはE-mail申込で実費頒布する。

 デヴィッド・アーヴィングは、さらに続ける。

《私の個人的な結論によると、アンネ・フランクの“日記”の大部分は、確実に一二歳のユダヤ人の少女によって書かれたものである。原文は、少女が集中収容所でチフスに罹って悲劇的な死を迎えたのちに、父親のオットー・フランクの手に入った。父親か、もしくは私が知らない別の人物が、その“日記”に添削をしたりして売り物になるような形式を与え、それが父親とアンネ・フランク財団に富をもたらした。しかし、原文に変更が加えられた以上、この本には、歴史的な記録としての価値は、まったくない》

 これらの“ショア・ビジネス”は、“証言”だけを活用して、犠牲者が様々な方法により“ガスで殺された”と匂わせる。だが、ロイヒターがすでに、物理的にも化学的にも不可能だと論証した“ガス室”の、どれ一つについても、“巡回ガス室”[訳注の追加]と呼ばれ、ディーゼル・エンジンの排気ガスで同じことをしたとされる無数のトラックの、どれ一つについても、それがどのような仕掛けだったのかを説明してくれたものは、いまだかつて、誰一人としていないのである。死体の埋葬後に隠されたと称する何トンもの灰についても、同様のことが言える。

訳注の追加:“巡回ガス室”については、次の項目「(c)凶器」に詳しい説明がある。

《ガス室の写真はまったく存在しない。死体は煙りとともに消滅した。残っているのは証人だけである》(『ル・ヌーヴェル・オブゼルヴァトゥール』85・4・26)

 クロード・ランズマンの果てしなく続く失敗作も、同じ考えに立っている。作者自身が、つぎのように語っているのである。

《何もないところから、この映画をつくらなければならず、記録文書もなかったので、すべてを考え出す[訳注1]しかなかった》(『リベラシオン』85・4・25、22頁)

訳注1:「考え出す」の原語は「inventer」。この動詞には、ほかに「デッチ上げる」の訳語例もある。


(20)(c) 凶器