『偽イスラエル政治神話』(10)

第2章:二〇世紀の諸神話

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第1節:
シオニストによる反ナチズム運動の神話 1

 ヒトラーとの闘いが始まった時、ほとんどすべてのユダヤ人組織は同盟国側に参加し、ヴァイツマンのような特に著名な数名の指導者たちは、同盟国に好意的な立場を明らかにした。

 ところが、ドイツのシオニスト集団は、しばらくの間、当時は非常な少数派だったが、反対の立場を取り、一九三三年から一九四一年の間はヒトラーと妥協または協力さえする政治活動に参加していた。ナチ政権は、同じ期間にユダヤ人を迫害し、たとえば最初の時期には、公職から追放していたが、ドイツのシオニストの指導者と談合して彼らを優遇することに同意し、追放の対象としての“人種的無差別待遇要求者”のユダヤ人と区別した。

[反ファシズム運動に参加せずにイスラエルの領土の確保を優先]

 ヒトラー政権との馴れ合いに関する告発は、ユダヤ人の多数派に向けられるものではない。彼らはむしろ戦争で戦うことを期待し、武器を手にして、一九三六年から一九三九年のスペイン内戦では、ファシズムに反対して国際旅団[原注1]に参加した。

原注1:アメリカのエブラハム・リンカン旅団の30%以上がユダヤ人だったが、シオニストの新聞は、彼らがパレスチナに行くべきなのにスペインで戦っていると非難していた。ダムブロフスキ旅団の五〇〇〇名のポーランド人の内、二二五〇名がユダヤ人だった。これらの英雄的なユダヤ人が、世界各地の最前線で反ファシズムの戦線に加わって戦っている時、シオニストの指導者は、ロンドンで彼らの運動を代表する雑誌の《ユダヤ人は反ファシズム運動に参加すべきか?》と題する記事で、その質問に、《ノー!》と答え、……唯一の目標として、《イスラエルの領土の確保》(『ユダヤ人の人生』38・4)を設定していた。

 その他にも、ワルシャワのゲットー[ユダヤ人地区]に至るまでの場面で、“ユダヤ人戦闘委員会”を結成し、死を賭して戦った。だが、馴れ合いを告発されるべきシオニスト指導者は、少数派ながら頑強な組織力を持っており、彼らの独自の先入観念は、強いユダヤ人国家の創設にあった。

 彼らのユダヤ人国家の創設という独自の先入観念と、さらには彼らの人種主義者としての世界観は、彼らを反ナチにする以上に、強い反英感情に駆り立てていた。

 戦後になって、彼らは、メナヘム・ベギンやイツァク・シャミールのように、イスラエル国家の最初の計画の指導者となった。

[ユダヤ人社会のドイツに対する公式の宣戦布告]

 一九三九年九月五日、イギリスとフランスのドイツに対する宣戦布告の二日後、ユダヤ機関の議長、ハイム・ヴァイツマン氏は、イギリス女王陛下の首相、チェンバレン氏に対して、《われわれユダヤ人は、大英帝国の側に立ち、民主主義のために戦う》と伝える手紙を手交した。具体的には、《ユダヤ人の代表たちは、直ちに、あらゆる人員、技術、物資、能力を提供する協定に署名する用意がある》と記すこの手紙は、一九三九年九月八日号の『ジューイッシュ・クロニクル』に再録され、ユダヤ人社会のドイツに対する公式の宣戦布告の役割を果たした。この結果、すべてのドイツのユダヤ人が、《ドイツと交戦状態にある民族の管轄に属するもの》として、集中収容所に収容される問題を生じたが、それはアメリカ人が自国籍の日系人を、日本と交戦状態に入ったからという理由で収容したのと同様の処置であった。

[シオニストにとっての主要な敵は同化主義者]

 シオニストの指導者たちは、ヒトラーとムッソリーニのファシズムの時代に、反ファシズムとの戦いを怠けたり、ファシズムに協力さえ試みることによって、その信用の置けない本性をあらわに示した。シオニストの基本的な目的は、ユダヤ人の命を救うことにではなくて、パレスチナにユダヤ人国家を創設することにあった。イスラエル国家の最初の指導者、ベン=グリオンは、一九三八年一二月七日に、シオニストの“労働党”指導者たちを前にして、つぎのように率直に公言している。

《もしも、ドイツにいる子供をイギリスに連れて行けば全部救うことができるが、エレツ・イスラエル[訳注1]に移住させたなら、その半分しか救えないと分かった場合、私は、第二の解決策を選ぶ。なぜなら、われわれは、その子供たちの命だけではなくて、イスラエル民族の歴史をも勘定に入れなければならないからだ》(『シオニストの政策とヨーロッパのユダヤ人の運命』)

訳注1:ヘブライ語で「イスラエルの土地」の意味だが、この表現には、旧約聖書の解釈に基づいてシリアなどをも含む「大イスラエル」構想から、現在の占領地を併合する主張までの幅があり、使用者の政治的な立場によって、範囲が違ってくる。共通するのは領土拡大の思想の表現である。

《ヨーロッパのユダヤ人の救出では、指導的階級の優先権にもとづくリストを念頭に置くのではなくて、国家の建設を最大の目的として見定めなくてはならない》(『第七番目の百万人』)

《……各自の特色を見分けもせずに、希望する者は誰でも助けるべきなのか? われわれは、この活動にシオニストの国家主義の特色を与え、「イスラエルの領土」またはユダヤ主義に役立つ者の優先的な救出を試みるべきではないのか? このような形の設問が残酷に見えることは分かっている。だが、われわれは不幸なことに、明確な基準を確立しなければならない。国家建設と民族の再生に貢献し得る五万人の内の一万人、または、われわれにとって負担もしくは少なくとも死重となる百万人以上のユダヤ人を救うことができるとしたら、救出が可能な一万人に限って救うべきだ。勘定外として残される百万人が、いかに非難をし、訴えようとも、われわれは、そうしなければならない》(『ユダヤ機関の「救出委員会」覚書き』43年度)

 たとえば一九三八年七月、ナチス・ドイツ支配下からの難民の落ち着き先を相談するために三一か国が集まったエヴィアン協議会[後出本訳書三三三頁]で、シオニスト代表団が取った態度は、この狂信に鼓舞されたものであった。シオニスト代表団は、唯一の可能な解決策として、パレスチナへの二〇万人の移住を認めよと要求した。彼らにとっては、ユダヤ人の命よりも、ユダヤ人国家の方が重要だったのである。

 シオニストの指導者にとっての主要な敵は「同化」であった。彼らは、血の純潔という基本的な先入観念を、すべての人種主義者と共有しており、ヒトラー主義者もその仲間だった。だからこそ、シオニストは、ドイツに続いて支配権を得たヨーロッパから、すべてのユダヤ人を追い出すという恐るべき計画を遂行するまでに至った反ユダヤ主義の組織的な機能に関してさえ、協力を惜しまなかった。ヒトラー主義者たちも、シオニストを、役に立つ相談相手と考えたのである。

[シオニズムの目的はナチの計画と矛盾しない]

 この協力関係に関しては物的証拠が残っている。「シオニスト・ドイツ同盟」が一九三三年六月二一日、ナチ党に手交した覚書きでは、つぎのように特筆すべき宣言をしている。

《人種原理を宣言した新しい国家の建設に当たって、われわれは、その新しい機構に、われわれの共同体が順応することを願う。……われわれのユダヤ国籍に関する認識は、その国家的および人種的な実情を踏まえたドイツ人との明瞭で率直な関係の確立を妨げない。より正確には、われわれも同じく雑婚に反対であり、ユダヤ人集団の純潔性の維持を求めているのであるから、この基本的な原理の過少評価を望まないのである。……われわれは、自らのアイデンティティを自覚するユダヤ人の代表であるが、そういうユダヤ人は、同化したユダヤ人が抱くような不満とは無縁であるから、ドイツ国家の機構に職責を見いだすことができる。……われわれは、自らの共同体を自覚するユダヤ人とドイツ国家との間に、忠実な関係の可能性があることを信ずる。

 実践的な目的に到達するために、シオニズムは、基本的にはユダヤ人に対して敵対的な政府とさえ、協力が可能であると期待する。……シオニズムの実現は、現在のドイツの方針に反対する外部からのユダヤ人の不満によって、妨害を受けることはない。現在、ドイツに向けられているボイコット[訳注1]のためのスローガンは、本質的に、シオニスト的ではない。……》(『あるホロコーストの校閲者』)

 この覚書きには、つぎの付記がある。

《ドイツ人がシオニストの協力を受け入れる場合、シオニストは、外国にいるユダヤ人がボイコットを支持するのを止めるよう働き掛けるであろう》(『ユダヤ人に対する戦争/一九三三~一九四五』)

訳注1:ヒトラー政権成立直後に世界ユダヤ人経済会議などの国際組織が呼び掛けたドイツ商品ボイコット運動。

 ヒトラー政権の指導者たちは、シオニストの首謀者たちの組織を好意的に受け入れた。シオニストの首謀者たちは、パレスチナに彼らの国家を設立したいという偏狭な妄執に凝り固まっていたので、ユダヤ人の追放というナチの願望に協力した。ナチの中心的な理論家、アルフレッド・ローゼンバーグは、つぎのように記している。

《シオニズムを積極的に支援し、相当数のドイツのユダヤ人を、年度別に割り当てて、パレスチナに移送すべきである》(『時代の変化の中でのユダヤ人の軌道』)

 のちのチェッコスロバキア“保護官”、ラインハルト・ハイトリッヒは、親衛隊の保安部長時代の一九三五年に、親衛隊の機関紙、『黒服将校団』に寄せた“見えざる敵”と題する論文で、ユダヤ人内部の違いを見分ける理論を展開し、つぎのように書いていた。

《ユダヤ人を、シオニストと同化主義者の集団の、二つのカテゴリーに分けるべきである。シオニストは率直に人種主義の信念を表明し、パレスチナへの移民による独自のユダヤ人国家建設計画を推進している。……われわれの正しい願望と、優れた公式命令には、彼らと共通するものがある》(『死の頭目の命令』)

《ドイツのベタル[本訳書三六二頁参照]に新しい名前が付いた。ヘルツリアである。ドイツにおける運動体の活動は、きっと、ゲシュタポの同意を得ることができるだろう。現に、ヘルツリアはゲシュタポの保護の下に運営されている。ある日、ベタルの夏のキャンプ地を、親衛隊の集団が襲った。運動体の責任者がゲシュタポに訴えたら、数日後に、秘密警察が事件に関係した親衛隊員の処罰を告示した。ゲシュタポはベタルに対して、どれほどの賠償が最も適切だと思うかと聞いてきた。運動体は、彼らが最近困っていた問題を挙げて、茶色のシャツ[旧ドイツ帝国軍の払い下げを受けて以来のナチス・ドイツ・ブランド]の着用禁止を、解除してほしいと頼んだら、その要求は受け入れられた》(『ベタル文書』)

 ヴィルヘルムシュトラッセ[ニュルンベルグ継続裁判の一つ]に提出された回状の一つには、つぎのような示唆が記されている。

《このカテゴリー(同化に反対し、国家的郷里の内部での同志の再結集を望むユダヤ人)の先頭に立っているのはシオニストだが、彼ら自身が設定した目的は、ドイツの政策がユダヤ人に関して実際に追求している目標と、ほとんど変わらない》(『ビュロウ・シュヴァンテがドイツのすべての在外外交官に送った回状』83号、34・2・28)

《ビュロウ・シュヴァンテは内務省に対して、ドイツにおけるシオニストの活動を行政的措置で束縛する理由はないと書き送った。なぜならシオニズムの目的は、ユダヤ人のドイツからの離脱を促進することにあり、国家社会主義の計画と矛盾するものではないからだ》(『手紙』ZU83・21・28/8号、35・4・13)

 この従前の措置を確認する命令は文字通りに実施された。実際に、ナチス・ドイツの内部のシオニズムの特権的地位については、ババリアのゲシュタポが一九三五年一月二八日に、警察に対して出した回状がある。

《シオニスト組織のメンバーは、パレスチナへの移住を方針とする活動を行っているので、ドイツのユダヤ人組織(同化主義者)のメンバーに対するのと同様な厳密さで対処してはならない》(『一九三〇年代のナチ法の下におけるシオニストと非シオニスト』)

《ドイツのユダヤ人のシオニスト組織は、ヒトラーが台頭してから五年後の一九三八年まで、合法的な存在であった。

 ……『ジュディシェ・ルンドシャウ』(ドイツのシオニストの日刊紙)は、一九三八年まで発行されていた》(『イスラエルとユダヤ教』93)

[ドイツ商品ボイコットを破る“ハアヴァラ協定”]

 ユダヤ人社会の唯一の代表としての公式の認可と引き換えに、シオニストの指導者は、世界中の反ファシズム運動が試みているボイコットを破ることを申し出た。

 一九三三年に、経済的な協力が始まり、二つの会社が創設された。テル・アヴィヴの“ハアヴァラ商会”とベルリンの“パルトロイ”である。

 作戦の仕掛けは、つぎのようなものだった。移住を希望するユダヤ人が、ベルリンのヴァッセルマン銀行か、ハンブルグのヴァルブルグ銀行に、最低一〇〇〇ポンドを預金する。この資金で、ユダヤ人の輸出業者がパレスチナ向けのドイツ製品を購入することが可能になり、これと同等のパレスチナの通貨をハアヴァラ商会の勘定で、テル・アヴィヴのアングロ・パレスチナ銀行に支払う。パレスチナに着いた移住者は、彼がドイツで預けたのと同等の額を受けとる。

 何人もの将来のイスラエル首相が、“ハアヴァラ商会”の計画に参加した。その名を挙げれば、ベン=グリオン[初・3代]、モシェ・シャレット[2代](当時はモシェ・シェルトックと名乗っていた)、ベルリン代表のレヴィ・エシュコル[4代]、ニューヨークで支援活動のゴルダ・メイヤ夫人[5代]と、まさに歴代だった(『ベン=グリオンとシェルトック』[『暗闇/“ハアヴァラ”協定』所収])。

 作戦は双方の党にとって都合が良かった。ナチは、これによってボイコット破りに成功した。

 シオニストは、ドイツ商品をイギリスで売ることにまで成功した。シオニストは、彼らが希望する大富豪のみの“選択的”な移民を実現できた。その資本によって、パレスチナでのシオニストの植民地化の発展が保証されたのである。シオニズムの目的に照らせば、彼らの計画の発展を保証するユダヤ人の資本をナチス・ドイツから救出することの方が、貧乏で労働や軍役に耐えず、お荷物になりかねないユダヤ人の命よりも、重要だったのである。

 この政治的な協力関係は一九四一年、つまり、ヒトラーが政権を握ってから八年後まで続いた。アイヒマンがカストナーとともに連絡役を勤めた。アイヒマン裁判の過程でも、この共謀関係についての、少なくとも部分的な事実が明るみに出た。ユダヤ人国家の創設に“役立つ”ユダヤ人、すなわち、金持ち、技術者、軍事力強化に適した若者などに関するシオニストの“取引き”は、その資格を欠く大多数のユダヤ人を、ヒトラーの手中に見捨てたのである。

 この“ハアヴァラ”委員会の議長、イツァク・グリュエンバウムは、一九四三年一月一八日に、“シオニズムはすべてに優先する。……”と宣言した。

《私は反ユダヤ主義者だと言われるかもしれない、とグリュエンバウムは答えた。私が「亡命者」を救おうとしなかったとか、私がイディッシュ[東欧ユダヤ人]の暖かい心を持っていないとか、……言いたい人には言わせて置くが良い。私は、ユダヤ機関に対して、ヨーロッパのユダヤ主義を助けるために三〇万もしくは一〇万ポンドもの金額を割り当てろ、などと要求したことはいない。私の考えでは、いったい誰が、これだけの仕事を、シオニストに反対する方の運動に対して、やり遂げろと要求したかということだ》(『破壊の日々』)

 この見解は、ベン=グリオンのそれと共通している。

《シオニストの事業は、ヨーロッパにいるイスラエルの“余計者”を救うことではなくて、ユダヤ民族のためにイスラエルの土地を救うことにある》(前出『ベン・グリオンとシェルトック』)

 《ユダヤ機関の指導者は、救出が可能な少数者の選別に関して、パレスチナにおけるシオニストの計画の必要性に応じて行うべきだという方針に同意した》(同前)

 ハンナ・アーレントは、もっとも著名なユダヤ人の立場の擁護者としての研究と著作を発表しているが、この問題の論争にも参加している。彼女は、『イェルサレムのアイヒマン』[日本語訳題]という本を、この論争の場に提供した。彼女は、この本の中で、その三分の二がシオニストの指導下にあった“ユダヤ人評議会”(ユーデンラート)の受動性と、さらには加担の有様を示した。

 イザイヤ・トランクの著書『ユーデンラート』によると、《フロイディガーが計算したところでは、ユダヤ人評議会の指示に従わなければ、ユダヤ人の一〇〇分の五〇の救出が可能だった》(『ユーデンラート』72)

 興味深いことに、ワルシャワ蜂起五〇周年の式典の際、イスラエル国家の元首[イツァク・ラビン]は、レフ・ワレサ[式典の当時のポーランド大統領]に対して、蜂起の副司令官で生き残りの一人、メレク・エデルマンには発言の機会を与えないように要請した。

 メレク・エデルマンは、すでに一九九三年に、エドワード・アルターから、イスラエルの日刊紙、『ハアーレツ』に掲載するためのインタヴューを受けていた。その中で彼は、ゲットーの「ユダヤ人戦闘委員会」の本当の唱導者と英雄が誰であったかを思い起こして語っていた。ブンドの社会主義者、反シオニスト、共産主義者、トロッキスト、ミハイル・ローゼンフェルト一家、マラ・ツィメトバウム一家、そしてエデルマンに、ポアレイ・ツィオンとハショマー・ハツァイルのシオニスト左派である。

 彼らこそが、スペイン内戦で国際旅団に志願したユダヤ人や、占領下のフランスでMOI(移民労働者)に加わったユダヤ人たちと同様に、自らの手に武器を握ってナチズムと戦ったのである。

 “世界シオニスト機構”議長に続いて、“世界ユダヤ人評議会”議長となったナフム・ゴールドマンは、『自伝』の中で、チェコの外務大臣、エドゥアルト・ベネスと一九三五年に会った際に、ベネスから非難を受けた経過を、ドラマチックに語っている。その際、ベネスが非難したのは、シオニストが“ハアヴァラ”(移送協定)でヒトラーヘのボイコットを破ったことと、世界シオニスト機構がナチズムに対する抵抗運動の組織化を断ったことに関してである。

《私の人生には、辛い会談に参加した経験も数多いが、あの二時間ほどに不幸で不名誉に感じたことはない。私は、全身のすべての神経で、ベネスが正しいと感じていた》(ナフム・ゴールドマン『自伝』)

[反ファシストを裏切るムッソリーニとの会談]

 ムッソリーニがイギリスに対して抱く敵意を察知したシオニストの指導者たちは、一九二二年に彼との連絡を付けた。ムッソリーニは一九二二年一二月二〇日のローマへの行進のあとで彼らに会った(『密使/エンゾ・セリーニの生涯』)。

 ヴァイツマンは一九二三年一月三日と一九二六年九月一七日に、ムッソリーニに会っている。世界シオニスト機構の議長、ナフム・ゴールドマンは、一九二七年一〇月二六日に、ムッソリーニと会談した。その時、イタリアの指導者は、こう語った。

《私は、このユダヤ人国家の創設を援助する》(前出ナフム・ゴールドマン『自伝』)

 この協力関係は、それだけですでに、国際的な反ファシストの戦いへの破壊行為を構成していた。それは、すべてのシオニストの政策を、パレスチナでのユダヤ人国家建設という唯一の計画に従属させるものである。この政策は、以後、戦争中も一貫して、ヨーロッパのユダヤ人に対するヒトラーの迫害が最も凶暴になった時期においてさえも、追求され続けた。

 ハンガリーのユダヤ人の移送の際には、シオニスト機構の副議長、ルドルフ・カストナーがアイヒマンと、つぎのような条件で取り引きした。アイヒマンの方は、パレスチナでの将来のイスラエル国家の建設に“役立つ”資本家、技術者、軍人など、一六八四名のユダヤ人のパレスチナへの出発を許可する。カストナーの方は、アイヒマンが四六万人のハンガリーのユダヤ人に、アウシュヴィッツに収容されるのではなくて、単純な移転だと信じこませるのを黙認する。


(11)取り引き相手のナチを救ったシオニスト