『偽イスラエル政治神話』(12)

第2章:二〇世紀の諸神話

電網木村書店 Web無料公開 2000.2.4

第1節:
シオニストによる反ナチズム運動の神話 3

[公式の歴史家による歴史のごまかし][この項は全部が改訂版での増補)]

 公式の歴史家による歴史のごまかしの典型的な実例を、分かりやすく示してくれるのは、エルサレムにあるヘブライ大学の「ユダヤ人現代史研究所」のメンバー、イェフーダ・バウアーの最新の著書である。『ユダヤ人は売られたのか?』[前出]という題名の彼の本の副題は、「ナチとユダヤ人の交渉・一九三三~一九四五年」となっている。

 この本は外見上、四九頁にわたる五二三項目の注釈、参考文献リスト、索引などの、あらゆる点で、科学的な作業による著作物に見える。

 だが、それは外見だけで、同じテーマを取り扱った資料の内、著者が知らないなどということがあり得ない資料のいくつかが、そのリストでは黙殺されている。疑いもなく、それらがバウアー自身の論調とは反対の立場であり、一番貧しいユダヤ人をヒトラーの毒牙に引き渡すための、シオニストの指導者たちの心尽くしを、明るみに出すことを目的としているからである。つまり、バウアー自身もここで、ある種の選別を実行したのである(前出『ベン=グリオンとシェルトック』)。

 ベン・グリオンの位置付けに関する証言では、弁解じみてはいるものの著名な伝記、バル・ゾハル著、『ベン=グリオン/武装した予言者』が、注釈にも、参考文献リストにも、索引にも、まったく姿を表わさない。疑いもなく、“ハアバラ”に対するベン=グリオンの賞賛、パレスチナに迎え入れるユダヤ人を選別して救出した彼の原則、《ヒトラー型だと思う》[前出]というベギンに対しての彼の評価などが、バウアーの「歴史的」地平線の上からは抹殺されている。

『ヤド・ヴァシェム研究』誌に載ったことさえあるイヴォン・ゲルブナーの労作も、同じ理由から、まったく言及もされていない。

 これらの労作は、実のところ、バウアーの仲間の宗教的なシオニストに源を発している。このジャンルで見事にバウアーの本の“削除”対象となったものの一つは、トム・セゲフの『第七番目の百万人』[前出]である。セゲフもまた、バウアーと同じくエルサレムのヘブライ大学で研究した間柄であり、現在はイスラエルで最大の日刊紙『ハアーレツ』の社会部記者である。

 もっと酷いのは、何らの注釈もなしに「イルグン・ツヴァイ・レウミ」[前出。パレスチナ民族解放戦士団]に捧げられた七行の中に、この組織が一九四四年に示したイギリスへの敵意について、まったく記されていないことである。一九四一年に、この組織がヒトラーに協力を申し込んだことに関しても、最低限度の暗示すらない。著者は、この協力申し込みの関係者の中に、のちの首相、シャミールまでがいるというのに、その名前すら記していない。この本は、なんと、“ナチとユダヤ人の交渉”に捧げられているというのに、である!

 同じテーマを扱ったハンナ・アーレントの本、『イェルサレムのアイヒマン』と、彼女の“ユダヤ人評議会”とナチとの関係についての大変厳しい判断も、やはり黙殺され、参考資料リストにも索引にも出てこない。ワルシャワのゲットー蜂起の副司令官だったマレク・エデルマンの本も、同じ目に会っている。エデルマン自身も、イェフーダ・バウアーの三五二頁の本の中に、それが当たり前のように出てこない。

 彼が“英雄”として顕彰する名簿の中に居並ぶカストナーは、《お尋ね者のナチを匿った罪で有罪》となるべき人物だったし、その他にもバウアーが良く知っているように、ヒトラーの利益のために術策を用いて、ハンガリーで最大の兵器製造企業だったヴァイス株式会社を、接収させたのだった。バウアーは、これらのヒトラーとの“談合屋”のリストを作り上げ、最後の頁で、《皆が英雄だった》(同書)とか、《皆が顕彰に値する》(同前)などと記す一方で、ヒトラーと同盟を結んだフランコと戦うスペインの国際旅団への志願者や、フランスのMOI[前出。占領下で戦った移民労働者]の抵抗活動家や、ワルシャワのゲットー蜂起の犠牲者などの、ファッシズムへの抵抗運動の戦いで命を落としたユダヤ人たちには、いささかの敬意も表わさないのである。

 この一人の「公式」の歴史家は、科学的装いを凝らして、ヒトラーとの談合のすべての本質を偽装し、激賞し、正当化し、真実をねじ曲げている。だが、その衣の下から透けて見えるものは、政治的および俗世間的な、「ア・プリオリ」以外の何物でもない。すなわち、唯一の英雄、ヒトラーとの談合屋、万歳! 銃を手に握って抵抗した者は無視せよ! である。

 ヒトラーに対する世界規模のボイコットを呼び掛けた人々についても、バウアーは同様に、その戦略的な重要性を過少評価し、“英雄”として評価しない。むしろ逆に、ドイツとイスラエルの経済的な貿易関係だけを指摘しながら、ボイコットの敵だった“ハアヴァラの談合”を優遇しているのである。

 バウアーの本の狙いは、基本的な真実を覆い隠すことにある。基本的な真実とは、すなわち、ヒトラーの支配の下でのシオニストの指導者たちの中心的な最優先課題が、ナチの地獄からユダヤ人を救い出すことにではなくて、テオドール・ヘルツルが創始した政治的シオニズムの計画にもとづく強力な“ユダヤ人国家”の建設にしかなかったということなのである。この計画は、以上の意図に基づく以上、あらゆる談合において、資本、もしくは“役に立つ人材”、すなわち、技術的または軍事的能力を伴う人材の移民の「選抜」を追及し、最も困窮した部類の老人、資力のない移住者、収容所での虐待で病気になった者や、お荷物になるだけで要塞建設の助けにならない人々は相手にしなかったのである。

 バウアーの本の主要な論点の第二は、ヒトラーの戦争について、《これはユダヤ人に対する戦争である》(同書)と信じこませることにある。ヒトラーの真の目的は、なによりもまず共産主義との戦争にあり、そのために東部戦線に彼の強力な軍隊の精鋭を振り向け、その一方でアメリカと同じくイギリスとの間に“分離平和”を実現し、最後には両面作戦なしにヨーロッパ全体への支配権の確保を狙っていたのだが、その事実は、つぎのような文脈で否定されてしまう。

《すべての歴史家は、すべての軍事力をボルシェヴィキの脅威との戦いに捧げるために、欧米との分離平和を推奨したのはヒムラーだという説に賛成している》(同書)。《フォン・パペン[前首相でナチ政権の副首相、オーストリア大使]は、共産主義に対する堰止めになれば、アメリカとイギリスから将来の了解が得られると確信していた》(同書)。

 バウアーが“談合”の存在をあえて認める理由は、シオニストとナチの“談合”の目的は正確にいうと以上の点にあったと主張するためなのである。さらには何度も、たとえばつぎのように、ヒムラーがシオニストと談合するのをヒトラーは許したという具合に記したりするのである。

《ヒムラーの個人的なノートの一九四二年一二月一〇日の欄には、つぎのように記されている。“私は総統に、身の代金と交換に、ユダヤ人を解放することを考えるように頼んだ。彼は私に、この種の作戦に関する全面的な権限を与えてくれた”》(バウアーによる同書への引用)

 この経済的な関係と、この“交換”は、バウアー自身の主張によれば、《[ナチが]ユダヤ人の連絡網を活用して欧米の列強との接触を図る》(同書)という政治的で、しかも深い理由にもとづいていた。この最優先課題こそが、すべての他の課題を支配するものであって、ナチは、欧米の指導者たちと緊密な関係にあるシオニスト・ロビーの重要性を良く知っていた。

《ナチは、ロシアとは反対に、女王陛下の政府やアメリカ政府は、ユダヤ人が彼らに加える圧力に弱いことを知っていた》(バウアーによる同書への引用)

 ヒトラー政権の指導者たちは、いつでも気安く彼らの反シオニズムを引っ込めて、第二の課題に機会を譲っていた。

《一九四四年の末には、この目的のために他の誰よりもユダヤ人を使って、西側との接触を確立しようというヒムラーの意志は明確になってきた》(同書)

 シオニスト指導者たちは、この仲介者の役割を見事に演じた。

 一九四四年四月、アイヒマンは、シオニストの使者、ブラントに、百万人のユダヤ人と、専らロシア戦線で使われる一万台のトラック(同書)の交換を提案した。

 ベン=グリオンと、当時はシェルトックと名乗っていたモシェ・シャレットは、この提案を引き受けた。ベン・グリオンはローズヴェルト大統領に私信まで送って、《このまたとない、しかも現在では、ヨーロッパの最後のユダヤ人を救出する最終的な機会を逸することがないように》(同書)勧めた。目的は明瞭だった。《ユダヤ人と戦略的兵器の交換、またはそれ以上に、西側との接触の確立、分離平和へと導くことのできる接触、それのみならず、これは希望であったが、ドイツが西側と連合してソ連に対抗する戦争》(同書)。これがヒムラーの目的であって、シオニスト指導者たちは、その仲介役を引き受けたのだった。

 この陰謀は失敗し、アメリカとイギリスは、この工作の情報をソ連に通知した。この工作は、同じくユダヤ人自身に対しても、すべての抵抗運動とすべてのナチズムの犠牲者に対しても、裏切りに他ならない。バウアー自身も、つぎのように認めることを余儀なくされている。

《ナチス・ドイツに対する戦いでのソ連の重要な役割は、同盟国の結束を支える上で基本的なものだった。ドイツ軍はロシアの赤軍に敗北を喫した。一九四四年六月六日のフランスへの侵攻は、確かに最終的な勝利に役立ったが、決定的な要因ではなかった。ソ連が存在せず、彼らの驚嘆すべき忍耐と、あらゆる描写を超える英雄的奮闘がなかったならば、戦争はまだ何年も続き、勝利はおぼつかなかったのかもしれない》(同書)

 ブーバー[前出]の言葉を借りると、彼らの“集団的エゴイズム”のために、ロシア戦線でしか使わない約束で仕入れた戦略物資を、ヒトラーに供給しようと考えた人々のことを、どう判断すれば良いのだろうか? もしも、このシオニスト指導者たちとナチとの間の商売が成功したとすれば、アウシュヴィッツにその象徴を見る仕組みは、その犯罪を継続できたことになる。

 それだけになおさらのこと、しかも、この観念が、バウアーの本全体に浸みわたっているのだから、それは確実に“集団的エゴイズム”だったのである。

 バウアーが取り扱っている時期のみに限定してみると、一九三三年から一九四五年の間に、ヒトラーへのボイコットを破ったハアヴァラ以来、トラック事件に至るまでに、シオニスト指導者とナチのすべての談合が行われた。一万台のトラックは、ソ連への対抗手段として供給されようとしていた。ソ連軍は、この時期、スターリングラードでナチの悪魔に致命的な損害を与え、一九四四年には、二三六師団ものナチとその衛星諸国の軍団の猛攻を耐えしのいだ。その努力によってソ連軍は、ナチに、イタリアに侵攻したアメリカ軍に向けては一九師団、フランスとノルウェイには六四師団しか配分できなくさせていた。この時期のすべての“談合”が、バウアーの寵愛を受けているのである。

 結局のところ、初めから終りまで、一九四一年にナチに協力を申し出たシャミールまで含めて、イスラエル政府の高官に成り上がったシオニスト指導者たちのすべては、パレスチナに強力な国家を造ることだけしか考えておらず、そのために“役に立つ人材”を導入し、効率の低いユダヤ人は二の次とし、その一方、一瞬たりとも、ヒトラーへの抵抗の協力関係を背負っていた人々への責任は考えていなかった。これではまるで、ナチがユダヤ人以外を敵としておらず、ユダヤ人以外は犠牲にしなかったのだから、ユダヤ人だけを救うべきだというに等しい。

 イギリスでさえも、このようにユダヤ人のみを排他的に優先し、しかも、さらには何よりもかによりも、パレスチナでの強力な国家の建設に役立つことのみを優先し、ヒトラー主義による五千万人の犠牲者を無視する意向に対しては、憤激する結果となった。

《世界ユダヤ人評議会のロンドン代表団は、イギリス外務省の一員から、つぎのようなローマ法王と欧米の列強諸国の共同の意思表示を、遠回しに知らされた。〈われわれは、あの連中の道具なのか? なぜ法王と欧米の列強諸国が、わがイギリスを焼き尽くした爆弾の使用より先に、ハンガリーのユダヤ人の虐殺を非難しなければならないのか〉(バウアーによる同書への引用》


(13)第2節:ニュルンベルグの正義の神話