我が闘争(抄訳)
『我が闘争(抄訳)』の全文如何なる犠牲を拂ふとも
我々は一九一九年に於て、既に我々の運動のために、大衆の国民化を主要なる目的としなければならぬことを知ったのである。
では如何なる犠牲が必要であるかを見やう。
一、大衆を国家のために奉仕させるには、如何なる社会的犠牲をも大きすぎるなどと考へてはならない。若し大衆が国民としての一致を欠いていたなれば、何よりも先づ経済上に於て、各人の経済的水準を高めることなど思ひも及ばない筈である。大戦末期に於てドイツの労働組合は無数のストライキを敢行した。若しこの勇気を以て、彼等を搾取し、貪欲な利益を搔き集めることばかりに狂奔していた雇主から、労働者の権利を取戻し得ていたとしたらどうだったらう。また之等の労働者が、その勇気と熱とを以て、祖国の運命を懸命に考へていたとしたらどうだったらう。我々は絶対に敗戦と云う最大の不名誉と悲劇とを与へられずに済んだのである。このことを考へれば、新しいドイツが今後の勝利を得るためには、如何なる経済的な犠牲を要求されても、決してそれが苦痛である筈はない。よしんば最大の犠牲を要求されても、目的の重要性と比較すれば、実に些々たる問題に過ぎない。
二、大衆の国民教育は、社会革命を行ふて始めて実現出来る。なぜならば、現在の社会を改革するに非ざれば、国民文化に個人を参与せしめ得るやうな経済条件の創造が不可能だからである。
三、我々の国家主義的な観念の一面を、無慈悲な程に、また狂信的にまで大衆に繰返して示すことのみが、唯一の大衆獲得法である。
今日迄に起きた歴史上の重要な変革の跡を辿って見るがよい。それらの原動力は科学的知識などに立脚するものは殆んどなく、殆んど全部が大衆を一つの方法へ駆り立てた、狂信的な感情であったことが分る。由来民衆の見解なるものは、大体に於て感情から成立っているものであって、理性の領分は極めて狭い。従って民衆は理知的な中途半端なものに対しては無感覚であるが、暴力には容易に征服される民衆の態度が大体に於て安定しているのは、彼らが理性に影響されることが極めて尠いから外ならない。