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試訳:アウシュヴィッツからの二つの虚偽証言

カルロ・マットーニョ

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2003925

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, Two false testimonies from Auschwitz, The Journal of Historical Review, vol. 10, no. 1, pp. 25-47を試訳したものである

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい

(onlinehttp://www.vho.org/GB/Journals/JHR/10/1/Mattogno25-47.html

 

 

序論

 ロバート・ケンプナーは、ニュルンベルク裁判13年周年を祝した論文のなかで、ユダヤ人の絶滅は、ニュルンベルク国際軍事裁判および1949年まで続いたその後の12の裁判以降、まったく疑問の余地なく立証されてきたと述べている[1]

 ケンプナーは次のように記している。

 

「ニュルンベルクで描かれたホロコーストの歴史は、犯罪行為の処罰に密接に関連している。歴史的真実性は、忠実な官僚制が丹念に保存してきたヒトラー体制の公式記録にもっぱらもとづいている。」

 

 これらの資料に加えて、ハンス・フランクおよびシーラッハの自白、ヘス、オーレンドルフの目撃証言、特別行動部隊、外務省裁判での多くの被告の陳述があり、「数多くのその他の歴史の真理は、過去20年間のドイツでの法廷での資料と目撃証言によって確証された」[2]というのである。

 しかし、実際には、「ユダヤ人絶滅の神話」という論文[3]で明らかにしてきたように、民族社会主義者側の大量の公式文書がこれらの裁判で提出されたにもかかわらず、ユダヤ人「絶滅計画」のたった一つの証拠も存在しない。「だから、ユダヤ人絶滅命令がどのようにして、いつ、誰によって出されたのか正確に確定することは困難である」。[4]

 以上のことは別としても、勝者が敗者を裁いた裁判の判決に歴史的価値を与えてしまうことは、きわめて安易であろう。

 事実、アメリカ合衆国の司法官が1946726日のニュルンベルク裁判公聴会で述べているように、国際軍事法廷はドイツに対する「連合国の戦争努力の継続」にすぎず、ドイツの政治的・軍事的組織は崩壊していたにもかかわらず、連合国は「技術的には戦争状態」にあったのである[5]

 イギリスの歴史家テイラーが指摘しているように、ニュルンベルクでは、

 

「被告の有罪を示すためだけではなく、訴追している国々の有罪を隠すために、文書資料は選別された。」

 

 それゆえ、ドイツの有罪は最初から決定されていた。

 

「判決が裁判に先行した。資料はすでに定められていた結論を維持するために提出された。」[6]

 

 ニュルンベルク裁判は、ドイツ人に対する「戦争努力」の継続を指示していたので、拷問を利用することもできた。初代アウシュヴィッツ所長ヘスは、ハイデでイギリスの尋問官によって「アルコールと鞭」を使って尋問され、なんと、内容も知らずに、供述書に署名したのである[7]

 1946年にダッハウで開かれたマルメディ裁判では、ローデン・シンプソン調査委員会が明らかにしたように、アメリカの尋問官は、被告に肉体的・心理的拷問を加えて、虚偽の自白を引き出した[8]

 裁判審理の過程では、勝者が戦後すぐに敗者に対して開いた裁判での雰囲気を典型的に代表している事件が起こっている。

 アメリカの尋問官キルシュバウムは、被告メツェルが自分の弟を殺したことを立証するために証人アインシュタインを連れ出した。しかし、殺されたとされる弟は法廷にいたのである。すると、キルシュバウムは、「おまえが、自分の弟を法廷に連れてくるというような馬鹿なことをしでかしたので、どうしたら、この豚を絞首台に引き連れていくことができるのか」とアインシュタインをあざけったのである[9]

 これらの裁判でのもっとも馬鹿げた点は、「目撃者」が矛盾した証言をしてしまうのを恐れることなく、まして偽証罪を恐れることなく、恥ずべき嘘を証言することができたことである。

 このことを如実に示しているのは、ベルゼン裁判でのソフィア・リトヴィンスカなる人物がアウシュヴィッツについて述べた陳述である。彼女は、1941年のクリスマス・イブ[10]かその数日前に[11]、アウシュヴィッツの病院で3000名のユダヤ人とともに、ガス室送りに「選別された」と述べたのである。しかし、アウシュヴィッツ博物館の歴史家によれば、この時点ではユダヤ人の「ガス処刑」も「選別」もまだ始まっていなかった[12]。また、ソフィア・リトヴィンスカは「ガス室」の中で、「煙が天井の小窓から入ってくる」のを見た[13]と述べているが、ユダヤ人の「絶滅」のために使われたとされているチクロンBは密閉された缶に保管された固形物であるから、この話も馬鹿げている[14]。さらに、「目撃者」リトヴィンスカは、「1分か2分」ガスにさらされ[15]、そのあとで、何か特別なことが起こったという。

 

「そのとき私の名前が呼ばれるのを聞いた。それに答える力はなかったが、腕を上げた。すると、誰かが私を捕まえて、部屋の外に放り投げた。ヘスラーは私を毛布でくるみ、オートバイに乗せて病院まで連れていった。私は病院に6週間とどまった。」[16]

 

 つまり、「ガス処刑」の最中に、誰かがガスマスクもつけずに、「ガス室」のなかに入り、ソフィア・リトヴィンスカを呼んで、彼女を運び出したのだというのである。

 これは精神錯乱の頂点である。青酸は存在する中でもっとも強力な毒である。人間にとっては、1㎥につき12mgで致命的である。さらに、「空気中の青酸の濃度が非常に高ければ、即死してしまう」[17]からである。

 本小論では、ベルゼン裁判での証人ジギスムント・ベンデルとアダ・ビムコの「目撃証言」なるものを検証してみよう。

 彼らの証言は、リトヴィンスカと比べるとそんなに法外なものではないが、まったく虚偽である。

 にもかかわらず、ライトリンガーは自著『最終解決』[18]のなかで、彼らの証言を採用している。

 さらに、最近、ヴェレールはアウシュヴィッツにガス室が存在した証拠としてベンデル証言をふたたび掘りおこしている[19]

 これらの偽証者が嘘をついているという事実は疑いもなく恥ずべきことなのであるが、もっと恥ずべきことは、非良心的な判事が、「技術的にまだ戦争状態にある」ドイツ人被告に対して、法的な復讐を行使するために彼らの「目撃証言」を利用していることであり、偏見を持った歴史家が、動揺しているユダヤ人「絶滅」という神話を支えるために利用していることである。

 

Ⅰ.「目撃者」

 チャールズ・ジギスムント・ベンデル

 ルーマニア系ユダヤ人医師ベンデルは、1945年のベルゼン裁判[20]1946年のテシュ裁判[21]での検事側証人であった。彼の「目撃証言」は1946年のTemoignages sur Auschwitz (Auschwitz Eyewitnesses)[22]にも掲載されている。

 彼は、1943114日にパリで逮捕され、ドランシイ収容所に収容され、ここから194312月にアウシュヴィッツに移送された。ここからブナ収容所(モノヴィツ、アウシュヴィッツⅢ)に送られ、ついで、アウシュヴィッツ中央収容所に戻り、最後にここからビルケナウに移送された[23]

 ベンデル博士は事件の日時を知らず、矛盾したことを述べている。

 

194411日、私は中央収容所に移送され、1944227日ビルケナウのジプシー収容所4に移って、医師として働いていました。」[24]

Q:ビルケナウではどのくらい働いていたのですか。

A:194411日から1945118日までです[25]

 

 19446月、ベンデル博士は、ビルケナウの焼却棟の特別労務班[26]に配置された。彼によると、この部隊は200[27]900[28]で構成され、そのなかで彼は「ガス室」でのユダヤ人「絶滅」を手伝った。

 このとき、彼ははじめて「ガス処刑」を目撃した。

 

19446月のある日、朝6時、私は、焼却棟4の作業班(150名)に加わった。…正午、女性、子供、老人の長い列が焼却棟の庭に入った。彼らはウッジのゲットーからやってきた。」[29]

 

 この個所は不正確である。ウッジからのユダヤ人の最初の移送者がアウシュヴィッツにやってきたのは、194411月であったからである[30]。さらに、この話はベルゼン裁判での彼の証言とも矛盾している。

 

「はじめてそこで働き始めたのは、19448月だった。このときにはガス処刑されたものは誰もいなかったが、150名のロシア人とポーランド人の政治囚は一人一人埋葬地のところに連れて行かれ、そこで射殺された。二日後、その日のグループに配属されたとき、ガス室が稼動しているところを目撃した。このとき、ウッジのゲットーからの80000名がガス処刑された。」[31]

 

 実際には、150名の政治囚の処刑はまったくの虚偽である[32]。そして、「ガス処刑」されたとされるウッジのユダヤ人の数は、アウシュヴィッツに移送されたユダヤ人の数よりも10倍も多いのである[33]

 ベンデル博士は、1234と番号を付された四つの焼却棟がビルケナウには存在したと述べている[34]

 彼によると、焼却棟12(ドイツの公式番号ではⅡとⅢ)の建設は19423月にはじまった。「これらの赤い煉瓦の建物の土台は19423月にすえられた」というのである。

 これは不正確である。アウシュヴィッツ武装SS警察中央建設局[35]は、194271日に最初のビルケナウの焼却棟の建設予算を取っているからである[36]

 また、ベンデルによると、焼却棟が完成したのは19431月であった。

 

19431月に完成し、彼らの貢献は、ヒムラー個人が在席したことで祝された。」[37]

 

 これも不正確である。アウシュヴィッツ武装SS警察建設局が、焼却棟ⅡとⅢを完成させたのは、それぞれ1943331日と625日だからである[38]

 ヒムラーが開会式に列席していたというのも正しくない[39]

 ベンデル博士によると、焼却棟12(ⅡとⅢ)はおのおのが16の炉室を持っていたというが[40]、これも虚偽である。これらの焼却棟には5炉室の炉が設置され、合計15炉室となる[41]

 ベンデル博士は、ビルケナウの4つの焼却棟にはおのおの2つの「ガス室」が存在したと主張している。

 

 Q:いくつのガス室があったのですか。

 A:各焼却棟には2つのガス室がありました[42]

 

 しかし、ベンデル博士は、19451021日の宣誓陳述では、各焼却棟には一つのガス室が存在したと述べている[43]。これらの主張はまたもや、アウシュヴィッツ博物館が擁護する「公式」見解とは矛盾している。博物館の関係者は焼却棟ⅡとⅢは一つの「ガス室」を、焼却棟ⅣとⅤは合計4つを持っていたと論じているからである[44]

ベンデルは焼却棟12(ⅡとⅢ)の「ガス室」は10×4×1.640㎡、64㎥)と同時に10×5×1.550㎡、75㎥)であったと述べている。

 

Q:部屋はどのくらいの大きさでしたか。

A:各部屋は長さ10m、幅4mでした。[45]

 

Q(弁護士ツィッペル博士):ガス室は10×1.6mであったと述べていますが、正しいですか。

A:はい、そのとおりです。[46]

 

 2つの地下のガス室があり、おのおの約長さ10m、幅5m、高さ1.5mであった。2つのガス室が焼却棟に死体を供給していた[47]、というのである。

焼却棟34(ⅣとⅤ)の「ガス室」は、6×3×1.5m18㎡、27㎥)であったという。

 

「焼却棟34については、2つの別のガス室があり、それぞれ、長さ6m、幅3m、高さ1.5mでした。」[48]

 

 ベンデル博士のデータはまったく虚偽である。焼却棟のオリジナル設計図によれば、「ガス室」とみなされた部屋は次のようなサイズである。

 

呼称

寸法

面積

容積

ⅡとⅢの死体安置室

130×7×2.4[49]

210

504

ⅣとⅤ

 

1.Binder

12.35×7.72×2.2

95.34

209.75

2.Lichte Höhe 2.00m

8.4×11.69×2.2

98.19

216.03

3.呼称不明の室[50]

11.69×3.7×2.2[51]

43.25

95.15

 

ベンデル博士による「ガス室」の容積は、もし真実であるとすると、驚くべきものである。

 

「通常、1000名が大きなガス室に、500名が小さなガス室に入れられた。」[52]

 

 これはありえないことであり、矛盾している。焼却棟ⅡとⅢのガス室は1㎡あたり2520名を収容し、焼却棟ⅣとⅤのガス室は28名を収容することになるので、まったくありえない。また、ベンデル博士は「焼却棟12にはおのおの2000名、焼却棟34にはおのおの1000名、ブンカーでは1000[53]と述べているので、矛盾してもいる。

 ベンデル博士は、64㎥の部屋に1000名を収容することができるかどうか、反対尋問を受けると、驚くべき回答をしており、それは、この「目撃者」の偽りと虚偽を明らかにしている。

 

Q:64㎥の部屋に1000名を押し込むことができるのですか。

A:よい質問です。それは、ドイツの技術を持ってだけ可能なのです。

Q:半立法メートルのスペースに10名を押し込むことができると真面目にお考えなのですね。

A:アウシュヴィッツでガス処刑された400万人が証人です。[54]

 

 御用歴史家たちはこの馬鹿げた主張を受け入れてきた。彼らは、「ガス処刑」や「焼却」についての技術的な不合理性に目を閉じ、ユダヤ人の絶滅は起こったのだから、それは可能であったと主張するのである。こうして、34名のフランスの歴史家の有名な声明が生まれた。

 

「このような大量殺戮が技術的に可能であったのかどうか問う必要はない。それは起こったがゆえに可能であった。」[55]

 

 ベンデル博士は、40㎡の部屋に1000名を押し込めるドイツの特別な方法について次のように記述している。

 

「人々はそこにひどく詰め込まれたので、その上に一人を詰め込むことさえも不可能であった。SS隊員にとっては、これらの部屋の詰め込まれた人々の頭の上に子供を投げ込むことは大きな楽しみであった。」[56]

 

 これもまたありえないことである。「証人」によれば、「ガス室」の高さは、1.61.5mだったからである。

 ベンデル博士がビルケナウの焼却棟に足を踏み入れたことがなかったこと、彼が「ガス室」について語っていることが、まったく虚偽であることは明らかである。

 同じように虚偽であるのは、焼却棟Ⅴで使われていた「絶滅」の技術に関する記述である。「犠牲者」は焼却棟の庭で脱衣したという。

 

12時ごろ、約8001000名の新しい移送者が到着した。これらの人々は焼却棟の庭で脱衣しなくてはならず、あとで風呂と熱いコーヒーを約束された。」[57]

 

これも、アウシュヴィッツについての公式の「真理」とは矛盾している。「犠牲者」は、絶滅派の文献ではとくに「脱衣室」と呼ばれる特別室で脱衣したことになっている。焼却棟Ⅱのオリジナル設計図では、いわゆる脱衣室は"Leichenkeller 2"と呼ばれている。焼却棟Ⅳでは、いわゆる脱衣室は設計されていない。設計図には、たんにEntluftung (aeration, ventilation)という単語が登場しているだけである[58]

 

「焼却棟の庭から、新しい移送者は『ガス室』に入った。泣き声と叫び声が聞こえた。彼らは、壁をたたきながら、たがいにもがき始めたのである。」

 

 これもありえない。ベンデル博士によると、「ガス室」には、1㎡に28人が詰め込まれており、これでは、どんな運動も不可能であるからである[59]

 「犠牲者」は2分で死んだ。20分後に、「ガス室」が開かれ、ベンデル博士はガスマスクについては何も語っていないので、特別労務班員がガスマスクなしで中に入り、死体を引き出し始めたという。

 

「これは2分続き、その後完全な静寂がやってきた。5分後にドアが開かれたが、もう20分待たないと入ることはできなかった。その後、特別労務班が仕事をはじめた。」[60]

 

 これもありえない。焼却棟ⅣとⅤは換気装置を持っていなかった。「ガス室」の換気は、ドアを開いて空気の流れを作り出すことによってだけであった[61]。青酸の強い毒性を考慮すると、害虫駆除のために燻蒸された部屋は、少なくとも24時間は換気されなくてはならなかった[62]。だから、特別労務班員がわずか20分の換気ののちに「ガス室」に入れば、そこには、まだ致命的な濃度のガスが残っているので[63]、彼ら自身がガス処刑されることになる。

 したがって、特別労務班員が「犠牲者」の死の5分後に死体の搬出をはじめることは、さらにありえない。ベンデル博士は変則的に次のように述べている。

 

2分間、壁をたたく音、人間のものとは思われないような叫び声を聞いた。その後、何もなかった。私の頭はくらくらし、気を失ったかと思った。このように残酷なかたちで死ななくてはならない女性、子供。何という犯罪であろうか。

 5分後、ドアが開けられた。積み上げられた死体が滝のようになだれ落ちた。たがいに絡み合っている死体もあり、それを引き離すのは非常に大変であった。それらは血にまみれており、死に直面して絶望的な戦いをしていたのである。ガス室を一度でも見たものは、それを忘れることはできないであろう。まだぬくもりの残っている死体は床屋と歯医者に引き渡され、髪を切られ、金歯を抜かれた。」[64]

 

 別のところで、ベンデル博士は、「ガス室」に入りきれなかった「犠牲者」は焼却棟の壕の前で射殺されたと述べている。

 

「このようなことが進行しているあいだ、満杯のためにガス室に入ることができなかった人々は、焼却棟の壕の前で射殺されつづけた。」[65]

 

 この記述も、アウシュヴィッツの公式の「真理」とは矛盾している。公式の「真理」は壕の近くでの処刑についてはまったく言及していないからである[66]

 この件について、ベンデル博士は、絶滅が最高潮のとき、焼却棟Ⅴは膨大な数の死体を処理することができなかったので、戸外での焼却のために3つの焼却壕が掘られたと述べている。

 

「焼却棟4(Ⅴ)では、焼却の結果は明らかに十分ではなかった。仕事がはかどらなかったので、焼却棟のうしろに、長さ12m6m3つの大きな壕が掘られた。」[67]

 

 1944626日のビルケナウの航空写真[68]が示しているように、これも誤りである。この焼却棟を含む収容所の写真には、死体の山や煙の痕跡が、まったく写っていない。ベンデル博士によれば、「6月だけで、ガス処刑された人の数は毎日25000名にものぼった」[69]というのにである。

 これらの幻の壕に関するベンデル博士の記述は間違っているだけではなく、ありえないことである。彼は、「…これらの大きな壕の真中に2つの溝が作られ、人間の脂肪やグリースがそこにしみでて、仕事が速やかに進行した」[70]と述べている。しかし、実際には、焼却壕に置かれた死体は焼け焦げになってしまい、たとえ脂肪が流れ出したとしても、それは高い温度のためにすぐに燃えてしまうので壕の底にたまることはありえない。同じ理由で、特別労務班員が、「ガス処刑」された死体を投げ込むために72㎡の山に近づけば、自分自身が燃えてしまうことであろう。

 ここでもまた、「目撃者」ベンデルは嘘をついているのである。

 焼却棟の焼却能力に関して、彼は次のように述べている。

 

「ついで、死体は特別労務班員によって搬出され、16の炉のある地上に向かうエレベーターにのせられた。その処理能力は、24時間で約2000体であった。双子の焼却棟34(ⅣとⅤ)は(快適な風景の中に位置していたので)普通『森の焼却棟』と呼ばれていたが、もっと規模が小さく、8炉しか持っていなかったので、24時間に1000体を処理した。」[71]

 

 これも誤りである(see note 18 of "Auschwitz: A Case of Plagiarism")。近代の焼却棟と同じような効率であったとすると、ビルケナウの46の炉室の焼却能力は24時間で9461325体すなわち平均1104体であり、ベンデルが夢想しているように6000体ではありえない。

 すでに見てきたように、わが「目撃者」は19446月には毎日25000名がガス処刑されたと述べている。合計1ヶ月で750000となる。しかし、これとは矛盾して、彼は、194456月には、400000が殺されたと述べている。

 

 「194456月、合計400000名がガス処刑され、8月には約100000名がガス処刑された。」[72]

 

さらに矛盾を重ねて、ベンデル博士は「715日から91日までに80000名がガス処刑された」[73]とも述べている。

 いずれにしても、19446月に、125000名、合計750000名をガス処刑することはまったく不可能である。この月にアウシュヴィッツに移送されたのは70000名以下であったからである[74]

 「犠牲者」の合計に関して、ベンデル博士は、「ガス処刑された人々」の数は400万以上と述べているが[75]、彼自身がビルケナウを「ヨーロッパ各地からの数十万の犠牲者の墓」[76]と呼んでいることと矛盾している。

 周知のごとく、ソ連が発明した400万という数字は[77]、今日では、絶滅派の歴史学からさえも正しくないとみなされている。

 ベンデル博士は、強制収容所での個人的な衣服とバラックの害虫駆除は「おもにlisoformによって」行われたと述べているが[78]、これは害虫には効果のない物質である[79]。これは、「ガス室」での「絶滅」の方法とされているチクロンBが実際にはアウシュヴィッツその他のすべてのドイツの強制収容所で害虫駆除のために使われていたと認めるのを避けるためである。

 最後に、その他の点でも、ベンデル博士の目撃証言は、アウシュヴィッツの公式の「真理」から逸脱している。

 彼によると、なんと、17トンの金歯が、400万の死体から抜かれたという[80]

 アウシュヴィッツ博物館の歴史家によると、40キロの金歯が194451631日(29のユダヤ人の移送集団が「ガス室」に送られたという)に集められた[81]。この割合でいけば、12000の移送集団が、ベンデルが想像する17トンの金歯を獲得するためには必要であることになる。

 ベンデル博士は、4300名のジプシーが19447月末に「ガス処刑された」と述べている[82]。アウシュヴィッツ博物館の歴史家は、2897名のジプシーがガス処刑されたのは194482日であったと述べている[83]

 ベンデル博士は、1944107日の反乱の中で、特別労務班員500名が、正確には焼却棟1(Ⅰ)からの100名、焼却棟3(Ⅳ)からの400名が射殺されたと述べている[84]。これは虚偽である。1944107日、焼却棟Ⅳの特別労務班員はわずか169名だったからである[85]

 ベンデルは、彼の二つの証言を信頼できるものとすれば、特別労務班員200名が194497[86]27[87]に「ガス処刑された」と述べている。

 特別労務班員に爆弾を提供した件で告発された4名の収容者が194412月に「絞首刑」となったという[88]。しかし、アウシュヴィッツ博物館の歴史家によると、この事件が起こったのは194516日であった[89]

 結論:ベンデル博士は、彼の目撃証言の本質的な諸点すべてで嘘をついてきた。

 

.「目撃者」アダ・ビムコ

 ポーランド系ユダヤ人医師アダ・ビムコは194384日にアウシュヴィッツに移送され、ベルゼン裁判で、ベンデル博士と同じく検事側証人として出廷した[90]

 彼女は証言の中で、「ガス処刑された犠牲者」の残した毛布を回収するためにビルケナウの「ガス室」に送られたと述べている。焼却棟に入るやいなや、彼女は幸運にも、同じ町出身の特別労務班員に出会った。彼は、「絶滅」のための極秘施設について話してくれたという。以下が彼女の証言である。

 

「最初の部屋で同じ町の男に会った。SSの下士官がいた。彼は赤十字に属していた。最初の部屋で、人々は脱衣し、この部屋から二番目の部屋に誘導されるとの話であった。数百名がこの部屋に入ることができるとの印象を受けた。それほど大きかった。その部屋は収容所にあるシャワー・浴室か洗濯室に似ていた。天井には平行に並んだ多くのシャワー・ヘッドがついていた。この部屋に入った人にはタオルと石鹸が支給された。だから、彼らはこれから入浴するという印象を持ったはずである。しかし、床を見れば、まったく溝がなかったので、入浴するのではないということはまったく明らかだったはずである。この部屋には、小さなドアがあり、それは、真っ暗で廊下のようにみえる部屋につながっていた。ローリーと呼ばれていた小さな荷物車を載せた数列のレールがあった。ガス処刑された囚人がこの荷物車に乗せられ、直接焼却棟に送られるとの話だった。焼却棟は同じ建物の中にあると思うが、ストーブ(ママ)を見たことはない。さらに、前の部屋よりも数歩高いところに低い天井の別の部屋があった。そこには2つのパイプがあり、ガスが通っているという話だった。ガスを蓄えた非常に大きな金属ボンベがあった。」[91]

 

要約すると、脱衣室から「ガス室」に入ることができ、「ガス室」は廊下に似た隣接の部屋(レールのある部屋)につながり、ここから、前の部屋より数歩上の非常に低い天井の部屋(ガスボンベのある部屋)に行くことができるというのである。

 この記述を焼却棟のオリジナル設計図と比較すると、これがまったく正しくないことがわかる。焼却棟ⅡとⅢの実態を検証してみよう[92]

 オリジナル設計図によれば、いわゆる「脱衣室」(Leichenkeller 2)からLeichenkeller 3に直接進むことができる、廊下(Gang)を介して、エレベーターのある玄関室(Vorraum)に進む、そしてそこから、いわゆる「ガス室」(Leichenkeller 1)に入る。この部分はすべて地下にあり、同一階にある。

 したがって、レールを持った部屋、ガス室を持った部屋は存在していない。炉室に直接つながるレールを持った地下室はまったく存在しない。炉室は地上にあるのである(死体はエレベーターによって運ばれた)。他の部屋よりも数歩高く、低い天井を持った部屋もない。Leichenkeller 1 は高さ2.3.メートル、Leichenkeller 2 は高さ 2.40メートルであった[93]

 焼却棟ⅣとⅤを検証してみよう[94]

 いわゆる脱衣室から(設計図では換気)、玄関室(Vorraum)を横切って、3つの隣接する「ガス室」の一つに入る。これらすべての部屋は地上にあり、同一階にある。レールを備えた部屋、ガスボンベを備えた部屋は、存在しない。直接炉室につながるレールを持っている部屋は存在しない。さらに、これらのレールはいわゆる「脱衣室」を横切らなくてはならない。他の部屋より数歩高い部屋は存在しない。低い天井を持つ部屋も存在しない。これらの焼却棟のなかでもっとも低い場所は、高さ2.2メートルである[95]

 だが、この「目撃証言」のなかでもっとも馬鹿げているのは、アダ・ビムコがチクロンBは缶に保管されていることを知らないで[96]、まるで問題のガスがメタンガスであるかのように、パイプと「非常に大きな金属ガスボンベ」について話していることである。

 ビムコ博士は、ガスが金属ボンベからパイプに流れ、シャワー口から「ガス室」に出てくると考えているようである[97]

 別の特別労務班員が「このガス室で約400万のユダヤ人がガス処刑された」[98]とビムコに語ったという。

 アダ・ビムコ博士はビルケナウの焼却棟に足を踏み入れたことはなく、このテーマについての彼女の「目撃証言」は完全に虚偽である。

 だから、我が「目撃者」が、焼却棟がいくつ存在したのかについて知らないとしても、驚くべきことではない。

 

「アウシュヴィッツは多くの収容所に分かれており、5つの焼却棟はビルケナウと呼ばれており、クラマーがその所長であった。」[99]

 

 ビムコ博士のその他の嘘は、彼女の偽証で作られた絵画を完成させている。

 

1943121日は、大規模な選別の日であった。チフスが収容所で蔓延しており、病院には4124名のユダヤ人女性がいた。このうち、4000名が焼却棟送りとして選別され、124名だけが残った。」[100]

 

『アウシュヴィッツ・カレンダー』によると、この日に病院で選別が行われたことはない[101]

 

727日、嫌疑をかけられているもの、病院にはまだいないもの全員がガス室に送られた。この日、大勢の移送集団がリッツマンシュタートと呼ばれる強制収容所から到着し、チフスの症例はごく少数であった。」[102]

 

すでに述べたように、リッツマンシュタート(ポーランド語ではウッジ)からのユダヤ人のアウシュヴィッツへの最初の移送は1944815日であった[103]

 それゆえ、アダ・ビムコ博士は、彼女の「目撃証言」の本質的な諸点すべてで嘘をついているのである。

 



[1] ナチスの「戦争犯罪」に対する裁判については、Adalbert Ruckerl NS-Verbrechen vor Gericht, Heidelberg, 1982.を参照していただきたい。

[2] Robert M.W. Kempner, "Vor dreissig Jahren in Nurnberg," in Allgemeine Judische Wochenzeitung, 21 November 1975.

[3] English translation (revised, corrected and expanded) "The Myth of the Extermination of the Jews," The Journal of Historical Review, VoL 8, nos. 2 & 3 (Summer and Fall 1988). 4.

[4] Liliana Picciotto Fargion, "La congiura del silenzio," in La Rassegna Mensile di Israel, May-August 1984, p. 226.

[5] Der Prozess gegen die Hauptkriegsverbrecher vor dem internationalen Militargerichtshof, Nuremberg, 14 November 1945- 1 October 1946, published at Nuremberg, 1948, vol. XIX, p. 440.

[6] A.J.P. Taylor, The Origins of the Second World War, Atheneum, New York, 1983, p. 13.

[7] Le Commandant d'Auschwitz parle, translated by Constantin de Grunwald, Julliard, (1959) 1970, p. 2.

[8] Freda Utley, The High Cost of Vengeance, Regnery, Chicago, 1949, pp. 185-200.

[9] Ibidem.

[10] Trial of Josef Kramer and Forty-Four Others (The Belsen Trial), William Hodge and Company, London-Edinburgh-Glasgow, 1949, p. 79.

[11] The Belsen Trial, p. 79.

[12] アウシュヴィッツでのユダヤ人の「ガス処刑」が始まったのは19421月とされている。最初の「選別」は194254日とされている。(Contribution a l'histoire du KL Auschwitz, Edition du Musee d'Etat a Oswiecim, n d., pp. 178 and 180).

[13] The Belsen Trial, p. 80.

[14] チクロンBは、粘土のような物質に吸収された青酸であり、それゆえ、粒状である。そして、密閉された缶に保管されていた。 (NI-9098, p. 35 and 38).青酸は摂氏25.7度で気化し、それは空気よりも軽い (Les Chambres a gaz, secret d’Etat, Editions de Minuit, Paris, 1984, p. 258).

[15] The Belsen Trial, p. 81.

[16] The Belsen Trial, p. 80.

[17] J. Sehn, Le Camp de Concentration d'Oswiecim-Brzezinka, Warsaw, 1957, p. 133.

[18] Gerald Reitlinger, The Final Solution. The Attempt to Exterminate the Jews of Europe 1939-1945, London, 1953, p. 150-152.

[19] Georges Wellers, Les chambres a gaz ont existe. Des documents, des temoignages, des chiffres, Gallimard, 1981, pp. 113-114, 120. Georges Wellers, "Auschwitz," in Les Chambres a gaz, secret d'Etat, op. cit. p. 183, 206.

[20] Trial of Josef Kramer and Forty-Four Others (The Belsen Trial), op. cit. pp.130-135.

[21] NI-11953.

[22]Temoignages sur Auschwitz, Paris, 1946, pp.159-164. この証言は "The Sonderkommando," is signed "Dr. Paul Bendel, 167 460," となっているが、あきらかにCharles Sigismund Bendeの証言である。

[23] Sector B II e (Zigeunerfamilienlager) of the Birkenau camp.

[24] The Belsen Trial, pp. 130-131.

[25] NI-11953, p. 1. [本小論ではベンデルの証言はフランス語からの再翻訳であった。]

[26] 焼却棟での作業を担当する囚人の特別チーム

[27] NI-11390, p. l.

[28] NI-11953, p. l.

[29] Temoignages sur Auschwitz, pp. 161-162.

[30] Contribution a l'histoire du KL Auschwitz, Edition du Musee d'Etat a Oswiecim, n.d., p. 209.

[31] The Belsen Trial, p. 131.

[32] アウシュヴィッツ『カレンダー』にはこれらの処刑についてのわずかばかりの言及もない。the Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz- Birkenau (Hefte von Auschwitz), Wydawnictwo Panstwowego Muzeum w Oswiecimiu, 8,1964, pp.54-62.

[33] Contribution a l'histoire du KL Auschwitz, op. cit., p. 209.

[34] Temoignages sur Auschwitz, pp. 160-161. The official numeration at Birkenau was; II, III, IV, V ( J.Sehn, Le Camp de Concentration d' Oswiecim-Brzezinka, Warsaw, 1957, p.132).

[35] Temoignages sur Auschwitz, p. 161.

[36] Hefte von Auschwitz, Wydawnictwo Panstwowego Muzeum w Oswiecimiu, 3,1960, p.68.

[37] Temoignages sur Auschwitz, p. 161.

[38] Hefte von Auschwitz, Wydawnictwo Panstwowego Muzeum w Oswiecimiu, 4,1961, pp.87 and 109.

[39] Ibidem ヒムラーがアウシュヴィッツを最後に訪問したのは1942年夏にまでさかのぼる。(Kommandant in Auschwitz. Autobiographische Aufzeichnungen des Rudolf Hoss, edited by Martin Broszat, DTV, Munich, 1981, p. 181).アウシュヴィッツ『カレンダー』によると、彼は、717日と18日にそこにいた。 (Hefte von Auschwitz, 3, pp.71-72).

[40] Temoignages sur Auschwitz, p. 161.

[41] Problämes choisis de l'histoire du KL Auschwitz, Edition de Musee d'Etat a Oswiecim 1979, p.44.

[42] "In each crematorium there were generally two gas chambers," The Belsen Trial, p. 135.

[43] NI-11350, pp. l and 3.

[44] J. Sehn, Le Camp de Concentration d'Oswiecim-Brzezinka, op. cit., p. 132

[45] NI-11953, p. 2.

[46] NI-11953, p. 4.

[47] NI-11390, p. 1.

[48] NI-11390, p. 1.

[49] J. Sehn, Le Camp de Concentration d'Oswiecim-Brzezinka, op. cit. p. 132.

[50] この部屋はのちに二分割されたと思われ、四番目の「ガス室」を誕生させた。(Jean-Claude Pressac, ‘Les Xrematorien’ IV and V du Birkenau et leurs chambres a gaz. Construction et fonctionnement," in Le Monde Juif, no. 107, July-September 1982, pp. 104 and 124).

[51] Jean-Claude Pressac, in the article cited above,pp.104-105. See appendix, figures 1 - 4.

[52] NI-11390, p. 3.

[53] NI-11953, p. 2.

[54] NI-11953, p. 4.

[55] Le Monde, 21 February 1979, p. 23.

[56] NI-11953, p. 2.

[57] The Belsen Trial, p. 132.

[58] J. Sehn, Le Camp de Concentration d'Oswiecim-Brzezinka, op. cit., p. 132; J.C. Pressac, in the article cited above, pp. 104-105. Leichenkeller = mortuary chamber; Entluftung = aeration.

[59] The Belsen Trial, p. 132.

[60] Ibidem.

[61] J.C. Pressac, article cited above, p. 125, note 21.

[62] NI-9912: Richtlinien fur die Anwendung von Blausaure (Zyklon) zur Ungeziefervertilgung (Entwesung) (Guidelines for using hydrocyanic acid [Zyklon] in the extermination of vermin), p. 13: "Ventilation must last at least twenty hours."

[63] William B. Lindsey, "Zyklon B, Auschwitz, and the Trial of Bruno Tesch," in The Journal of HistoricalReview, Vol. 4, no. 3 (Fall 1983), p. 299, note 44.

[64] Temoignages sur Auschwitz, p. 163.

[65] The Belsen Trial, pp. 132-133.

[66] J. Sehn, Le Camp de Concentration d'Oswiecim-Brzezinka, op. cit., p. 147.

[67] The Belsen Trial, p. 131.

[68] Dino A. Brugioni and Robert Poirier, The Holocaust Revisited A Retrospective Analysis of the Auschwitz-Birkenau Extermination Complex, Central Intelligence Agency, Washington, D.C., February 1979, p. 8 (the captions which accompany the photographs are quite tendentious). See appendix, figures 5 and 6.

[69] NI-11953, p. 3: "During the month of June the number of gassed was 25,000 every day."

[70] The Belsen Trial, pp. 131-132.

[71] Temoignages sur Auschwitz, p. 161. t

[72] NI-11390, p. 4. ;

[73] NI-11953, p. 3.

[74] 19446月、ハンガリーから21の移送がアウシュヴィッツに到着した。各列車には約3000名が載っていたから、約63000名となる。(Leon Poliakov, Le Proces de Jerusalem, Paris, 1963, p. 199); この他、ドランシからの移送、コルフからの移送、フォッソリからの移送、「ヘルトゲンボシュ」からの移送がそれぞれ1件あり、合計4493名であった。さらに、イタリアからの2つの移送があり、何名が載っていたのか判明していないが、非常に少ない数であったであろう(a)。ウィーンからの2つの移送、クラ服からの1つのいそう、ソスノヴィツからの1つの移送があり、合計115名を載せていた。

(a)イタリアからのユダヤ人の移送の数の平均(数のわかっているものから算出すると)400名以下であった。Ebrei in Italia: Deportazione, Resistenza, Centro di Documentazione Ebraica Contemporanea di Milano, Florence, 1974. A "chronological list of transports" is included.

[75] NI-11953, p. 2.

[76] Temoignages sur Auschwitz, p. 160.

[77] USSR-08. この数字は、焼却棟の稼動期間と19300名という想像上の焼却能力に基づいている。

[78] Gerald Reitlinger, La soluzione finale. Is tentative di stermimo degli Ebrei d'Europa 1939-1945, Milan, 1965, p. 559. Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg, edited by Eberhard Jacket and Jurgen Rohwer, Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart, 1985, p. 176. Colloquium of the Ecole des Hautes Etudes en sciences sociales, L'Allemagne nazie et le genocide juif, Gallimard-Le Seuil, 1985, p. 253.

[79] NI-11953, p. 3.

[80] NI-11953, p. 3.

[81] Hefte von Auschwitz, 7, 1964, p. 55.

[82] The Belsen Trial, p. 131.

[83] Hefte von Auschwitz, 8, 1964, p. 55.

[84] The Belsen Trial, p. 133.

[85] Hefte von Auschwitz, 8, 1964, pp. 72-73.

[86] Temoignages sur Auschwitz, p. 159. This date has used by Georges Wellers in the article "Revolte du Sonderkommando a Auschwitz," in Le Monde Juif, no. 18, April 1949, p. 18.

[87] NI-11953, p. 3.アウシュヴィッツ博物館の歴史家によると、問題の事件は19441125日に起こった(Contribution d l'histoire du KL Auschwitz, op. cit., p. 211).

[88] The Belsen Trial, p. 133.

[89] Hefte von Auschwitz, 8, 1964, p. 94.

[90] The Belsen Trial, pp. 66-78.

[91] Idem, p. 67-68.

[92] See Appendix, Figure 3 of the preceding article, "Auschwitz: A Case of Plagiarism."

[93] Central Commission for Investigation of German War Crimes in Poland, German Crimes in Poland, Warsaw, 1946, voL I, p. 84.

[94] See Appendix, Figures 1 and 2.

[95] Jean-Claude Pressac, article cited above, pp. 104 and 105.

[96] See note 14 to the Introduction.

[97] アウシュヴィッツの公式の「真理」によれば、「ガス処刑」はチクロンBを直接「ガス室」に投入することによって行なわれた。

[98] The Belsen Trial, p. 68.

[99] Idem, p. 67.

[100] Idem, p. 67.

[101] Hefte von Auschwitz, Wydawnicto Panstwowego Muzeum w Oswiecimiu, 6, 1962, p. 81.

[102] The Belsen Trial, p. 73.

[103] See note 11 to Part I.


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

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