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試訳:クルムホフ・ヘウムノ収容所をめぐる諸問題

イングリド・ヴェッカート

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:200481

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Ingrid Weckert, What was Kulmhof/Chelmno ? The Revisionist, 2003, No.4を試訳したものである(ただし、図版は省略した)。
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

onlinehttp://vho.org/tr/2003/4/Weckert400-412.html

 

編集部から

 今日まで、民族社会主義者のクルムホフ・ヘウムノ「絶滅収容所」に関する研究書は一つもでていない。それは、この収容所についての証拠がきわめて乏しく、もっぱら目撃証言だけに依拠しなくてはならないという状況のためであろう。ヴェッカート論文は、おもに、コーゴン、ラングバイン、リュッケルル編『毒ガスによる民族社会主義者の大量殺戮』(1983年、S. Fischer Verlag in Frankfurt a.M.)、および他の「ホロコースト研究書」からの記述を検証している。ヴェッカート自身は、現場検証を行なったわけではない。だから、彼女の論文は、クルムホフ・ヘウムノについてのこれまでの研究を要約し、批判的に考察したにすぎない。本論文の目的は、第一に、クルムホフについてのホロコースト正史には検証と修正が必要であることを明らかにすることである。

 

ドイツ検事局へ

 ドイツ検事局は修正主義者の研究を「似非学問的」とみなしているが、以下の研究は、そのようなものではなく、クルムホフ・ヘウムノ「絶滅収容所」で起こった諸事件を解明しようとする真剣な試みである。本小論は、今日までの研究の中にある疑問点だけを指摘しているが、疑問点の指摘だけに限定せざるをえないのは私の責任ではない。これまでの歴史学が、クルムホフ・ヘウムノの調査をまったく怠ってきたからである。本小論では、不明瞭で矛盾をかかえている目撃証言、告発、結論が要約されているが、そのことが、歴史家やその他このテーマに関心を持つ人々が真実を発見する手助けとなることを希望している。クルムホフ・ヘウムノに数千の人々が殺された絶滅収容所が存在したとすれば、このような犠牲者のへの敬意を表するためであっても、不明瞭な記憶、純粋な憶測、噂、過程の底流にあるものを明らかにして、歴史的真実を発見することには十分な理由が存在するであろう。

 本小論は修正主義的研究のよる分析の結論を提示するものではない。クルムホフ・ヘウムノ収容所にまつわるこれまでの非難と告発を、たんにもう一度掲載しているにすぎない。引用されている文献と著者と同様に、大量犯罪を否定したり、過小評価することは私の意図ではない。ここで提示されている諸問題を研究すれば、このテーマについての研究状況は依然として不満足なものであることを理解されるはずであるが、私が結論として申し述べているのは、そのことにすぎない。すなわち、これまで発表された研究書には多くの矛盾があるが、そのことによる疑問と疑念は、こうした研究書の記述に対する懐疑の念を培わざるをえないということである。

 歴史学とは、歴史上の事件、出来事の成り行きを研究する学問である。このことがクルムホフ・ヘウムノでの事件にも適用されることを願っている。

 

1. はじめに

 ホロコースト正史によると、ウッチの50km北西にあるポーランドの小さな町クルムホフ、ポーランド名ヘウムノは、民族社会主義者の恐ろしい絶滅収容所であった。計り知れない数のユダヤ人が、ただ殺されるためだけに、ここに移送されてきたという。他のドイツの収容所とは異なり、犠牲者たちは、作業班に送られて生き残るチャンスさえも与えられていなかったという。ここにもユダヤ人特別労務班は存在していたが、その仕事は殺された同胞の死体を巨大な大量埋葬地に埋めるか、焼却するだけであったという。その仕事が終われば、この墓堀人たちも殺されたという。クルムホフ・ヘウムノからの34名の生存者は、自分たちが生き残ったのはただ逃亡したためであったと述べているという。

 『大量殺戮』が描いている図式はごく簡単である。すなわち、ウッチとその周辺地域のユダヤ人住民は、鉄道でクルムホフの近くにまで移送され、そこから、トラックでクルムホフに向かった。クルムホフでは、SS部隊が館を殺戮場に改造していた。犠牲者はその建物に入り、服を脱いで、地下通路を通って、出口の近くに駐車していたガストラックにそのまま歩いていった。トラックが満杯となると、ドアが閉じられ、エンジンがかけられ、その排気ガスが、パイプを介して内部に送られ、犠牲者を殺した。その後、トラックは小さな森に向かい、そこで、ユダヤ人労務班がトラックから死体を降ろして、当初は、大きな壕に死体を積み上げ、のちには、焼却目的のために作られた自家製の「炉」の中で死体を焼却した。灰は、ばら撒かれたり、埋められるか、ヴァルテ川に投げ捨てられたという。

 

2. 絶滅収容所の計画と初期段階

 引用されている典拠文献は、クルムホフ・ヘウムノか、セムリンの同じような施設のどちらが、民族社会主義者の建設した初めての死の収容所であったかどうかについて一致していない。ライトリンガーは[1]、二つの可能性を指摘している。その他の研究者は、最初の絶滅はクルムホフ・ヘウムノに建設されたと考えている(ダヴィドヴィチ『ユダヤ人に対する戦争』125[2]、セレニイ『深淵』98[3])。ダヴィドヴィチは、この収容所はウッチ・ゲットーのユダヤ人の絶滅のためのものであったことを強調しているのに対して、セレニイとライトリンガー(153頁)は、もともとは安楽死施設として計画されていたと考えている。

 

2.1. ロルフ-ハインツ・ヘップナー書簡

 『大量殺戮』(110f頁)は、ヘウムノが十分に準備された計画案件であったことを立証するために、1941716日のSS少佐ロルフ-ハインツ・ペップナーのアイヒマンあての書簡を引用している。その中で、ヘップナーは、ユダヤ人に「十分な食糧を提供できない」危険性をアイヒマンに知らせている。だから、彼は、「ユダヤ人が働くことができない場合、効果的なすみやかな方策を使って、ユダヤ人を処分することがより人間的な解決ではないかどうか熟慮すべきである」と考えていたという。『大量殺戮』がこの文書の典拠資料としてあげているのは、ワルシャワの『民族社会主義犯罪ポーランド中央調査委員会文書』第3巻である。

 書簡としてではなく、ファイルメモのかたちであるが、同じ文書のテキストが、リュッケルルの『民族社会主義者の絶滅収容所』[4]256f頁)にある。その典拠資料も、第3巻ではなく、第8巻となっているが、上記のポーランド文書である。同じ典拠資料にもかかわらず、テキストは同一ではない。2行が失われていることは別としても、『大量殺戮』とリュッケルルの著作を比較すると、7つの文章的な相違がある。さらに重要なことは、『大量殺戮』が、アイヒマンあての付属書簡もふくむこのノートは署名のないコピーのかたちで残っているだけであり、戦後、ヘップナーはこのノートが自分のものではないと断言していること(リュッケルル256f頁)にまったく沈黙していることである。

 

2.2 クルムホフ・ヘウムノ特別分隊(Sk

 クルムホフ・ヘウムノでの殺戮は、SS特別分隊(ゾンダーコマンド)によって行なわれたとされている。この部隊はさまざまな名前で呼ばれている。『大量殺戮』は、「クルムホフ・ヘウムノ特別分隊」とか「収容所特別分隊」とかそのときの隊長の名前にちなんで「ボートマン特別分隊」と呼んでいる(116頁)。しかし、他の著者は「ボートマン特別分隊」と呼んでいるだけである(ライトリンガー280頁、ネレッセン[5]240頁)。この件を実際によく知っていたはずであるこの分隊のメンバーは、「ハインリヒ・ヒムラー特別行動部隊」と呼ばれていたと述べている(リュッケルル243頁)。

 『大量殺戮』は、SS大尉ヘルベルト・ランゲが最初の隊長であったと記しているが(111頁)、他の研究者とはくいちがっている。クリスチャン・ヴィルトが最初の隊長であったとする研究者もいる(セレニイ98127頁)。リュッケルルはヴァルテラント大管区指導者グライザーの直接指揮下にあったと考えている(334頁)。

 分隊の構成についても、名前と同様に意見が分かれている。精神病患者を殺害するいわゆる「T4作戦」ですでに一緒に活動していた集団であったという見解がある(ライトリンガー153頁、ダヴィドヴィチ『ユダヤ人に対する戦争』126頁)。一方、東プロイセンで「大量殺戮訓練」を受けたメンバーであったという見解がある(ラカー[6]159頁)。また、ヒルバーグは、分隊の中心はポーゼンとウッチのゲシュタポ・メンバーから採用されたとみなしている(ヒルバーグ『絶滅』[7]603頁)。さらに、『大量殺戮』では、分隊メンバーは、保安警察、国家警察部隊のメンバーであったとなっている(116頁)。

 地元住民、とくにヴォルイニ地方から移住してきた民族ドイツ人との関係は、良好、ひいては親密であったという。男性はSS部隊のために働き、村の女性はカフェに雇われていた(『大量殺戮』134頁、ライトリンガー280頁)。

 しかし、ニュルンベルク裁判では、近くの村の住民たちは絶滅施設が建設される前に移住させられたとの話になっている(IMT[8], Vol. VIII, p. 363)。だが、同じ村の住民が、のちに証人として出廷し、宣誓証言をしているのであるから、この話と目撃証言のあいだには不可解な矛盾があることになる。もし、移住させられていたとすれば、絶滅目撃することもできないし、そのことをのちに証言することもできないからである。

 

3. クルムホフ・ヘウムノ市とその場所

 さまざまなホロコースト文献の中にあるように、クルムホフ・ヘウムノは、ヴァルテ川の支流ネル川のほとりにある小さな町であり、ワルシャワ・ポーゼン・ベルリン幹線の近くであった。さまざまな研究者によると、それはウッチの北西405060kmのところにあった[9]。だが、悪業が行なわれたのはクルムホフ・ヘウムノではなく、そこから350kmほど東、ソビボルの南、ルブリンの東にあるホウム、もしくはヘウムというもっと大きな町であったと考えている研究書もある[10]。リヒテンシュタインは、ドイツ国有鉄道と東部鉄道(占領ポーランド地域でのドイツ国鉄の名称)の計画図にもとづいて調査を進め、ヘウムノがホウムと鉄道でつながっていることを指摘して、ヘウムノでの大量殺戮を証明しようとした。

 すでに指摘しておいたように、殺戮行動なるもののセンターは、ポーランド分領クルムホフ・ヘウムノの荘園であり、それは、「館」とも呼ばれていた。リュッケルルが『民族社会主義者の絶滅収容所』(261頁)に掲載している町のスケッチによると、この建物は、二つの通りの交差する町の中心部にあった。教会、居酒屋、学校、公共施設のすぐ近くであった。

 「史上最初の殺人工場」(ヘーネ[11]343頁)のような建物が登場した経緯については、何名かの研究者のあいだで意見が分かれている。例えば、ヘーネは、「野蛮な使命を果たすことになる」館を「クルムホフの森の中に」もとめている(343頁)。ライトリンガーは、「信じられないほど恐ろしい写真の残っている『館』として知られている古い建物のことを語っている(ライトリンガー153頁)。残念ながら、彼は、信じられないほどの恐ろしい写真をどこで見ることができるのか明らかにしていない。

 SSは、付属庭園をもつ古い建物をポーランド人囚人に修復させたという。外部から隠蔽するために、人の背よりも高い板が全地域を囲んだという。乗り物は、木造のゲートの前で止まり、運転手がそこで降りて、SS分隊員が乗り物をフェンスで囲まれた地区に運んでいったという(IMT, VIII, p. 363、クレー371頁、『大量殺戮』114頁、リュッケルル266268頁)。

 

4. クルムホフ・ヘウムノでの絶滅行動の開始

 収容所が絶滅行動をいつ始めたのかについては、正確にはわかっていない。ダヴィドヴィチは、ガス処刑専門家が1941年初秋にすでにやってきており、少なくとも1台の「トラック」がヘウムノにあったと書いている(『ユダヤ人に対する戦争』126頁)が、その頁の前後では、ヘウムノのガストラックは1941128日に「稼動し始めた」と書いている(『ユダヤ人に対する戦争』125278頁)。一方、ポーランド調査委員会は、ヘウムノ絶滅収容所はすでに194110月にその犯罪行動を始めたと述べている(ライトリンガー274頁)。ライトリンガーは、この件についての証拠をまったく提示していない。リヒテンシュタインもこの見解に同調している(40頁)。ラカー(159頁)、ヒルバーグ(『絶滅』604頁)、ポリャーコフ[12]192頁)セレニイ(『深淵』113頁)、ヘーネ(343頁)、リュッケルル(268頁)、クレー(371頁)は、194112月初頭とみなしている。

 リュッケルルは次のように記している。

 

1941125日から19421月中旬まで、ユダヤ人がトラックで近隣地区からヘウムノに運ばれたのち、ゲットーからの移送が1942116日から始まった。」(276頁)

 

 ユダヤ人住民がウッチ周辺の町からヘウムノに移送された件についての記述は、一様ではない。ニューヨークのJewish Frontier雑誌は、194211月に、「絶滅センター」と題する記事を掲載している。この記事は、ヘウムノに関してであり、雑誌社がポーランド系ユダヤ人労働者団体ブントから入手した資料にもとづいている。この団体は、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人文書センターOneg Shabbatから、この資料を受け取ったと述べている。このセンターが、クルムホフ・ヘウムノに関する資料をどのようにして入手したかについては、2つの説がある。クルムホフ収容所からの一人の逃亡者ヤコフ・グロヤノフスキがワルシャワに逃亡してきて、自分自身が書き、ポケットに入れていたレポートを手渡したという説がある(『大量殺戮』131頁)。一方、クルムホフからの何名かの逃亡者が、センター長エマヌエル・リンゲルブルムの助手に自分たちの経験を話し、そして報告が作成されたという説もある(ラカー139頁)

 この報告は目撃証言によってか、もしくはその話にもとづいて作成されているが、194110月から19421月初頭のあいだに、ウッチ周辺のユダヤ人住民が移送されたのはヘウムノではなく、ザゴロフの森であった、そこで、彼らは跡形もなく姿を消した、ウッチからのユダヤ人だけがヘウムノに送られ、そこで殺されたと述べている。この記述によると、これらの移送が始まったのは1942115日であった。

 しかしながら、リュッケルルは、(すでに引用した276頁の記述を補足するかたちで、もしくは矛盾するかたちで)、ウッチ周辺のユダヤ人はヘウムノに送られ、「少数が19423月に、大多数が4月に送られた」と述べている(278頁、注72

 1942116日は、ウッチ・ゲットーからの最初の移送者が送られていった日である。すべての研究者が、ウッチからの移送者がクルムホフ・ヘウムノに移送されていったことについては、文書資料的証拠がまったく存在しないことを認めている[13]。しかし、この日は、しばしばヘウムノでの殺戮行動開始の日とされている(ネレッセン57頁)

 

5. 犠牲者の移送

 これまでの記述によると、ユダヤ人住民がウッチとその周辺地区からクルムホフ・ヘウムノに移送されたのは、そこで殺されるためであったという。さまざまな研究書の中で、移送ルートは詳しく記述されているが、矛盾を抱えている。

 犠牲者たちがどこまで鉄道輸送されたのかについても、研究者の意見は一致していない。ウッチ・ポーゼン幹線の町ヴァルトブリュッケン・コウォに向かい、そこからクルムホフ・ヘウムノに向かったのか、それとも、ヴァルトブリュッケン・ダビエ・ドイッチェネク第二幹線の小さな町ポヴィエルツィエ(ドイツ名パウエルス)に向かい、そこからトラックでクルムホフ・ヘウムノに向かったのか(ヒルバーグ[14]『絶滅』(英語版)625頁、ヒルバーグ『絶滅』(ドイツ語版)656頁、『大量殺戮』116119120頁、リュッケルル77f頁)、もしくは鉄道で直接クルムホフ・ヘウムノに向かったのか(ヘーネ343277頁)。

 リュッケルルと、彼を参照するヒルバーグ(『絶滅』)は、この混乱を収拾しようとして、タイム・スケジュールをまとめ、さまざまな日付のさまざまな移送集団を列挙している。しかし、これには説得力がない。目撃証言のあげている日付が、たがいに矛盾しているからである。ある証言では、1942年の移送のはじめには、ユダヤ人はヴァルトブリュッケンで降ろされ、10の移送集団がユダヤ教会で一夜をすごす(ヒルバーグ『絶滅』656頁、リュッケルル277頁)、もしくはヴァルトブリュッケンの市の広場まで歩いていって、そこでトラックに拾われた(リュッケルル277頁)。例えば、『大量殺戮』には、犠牲者は19421月・2月にポヴィエルツィエに車で運ばれ、そこから、ザヴァトキに進み、粉ひき小屋で一夜をすごしたとある(120頁)。しかし、4頁前では(116頁)、移送集団が粉引き小屋で一夜をすごしたのは19421月・2月ではなく、3月から6月にかけてで、その時には、個別の『粉引き小屋看守』が配置されていたとある。一方、リュッケルルの引用している(277f頁)証人は、人々は19423月から5月、すなわち、7月以前に、ザヴァトカ(この町の名称は証人によって異なる:ダヴァトキ、ザヴァスキ、ザヴァトキ、ザヴァトカ)の粉引き小屋で一夜をすごしたと述べている。しかし、ヒルバーグは、ユダヤ人が一夜をすごしたのはザヴァスキの粉引き小屋ではなく工場であったと考えている(656頁)。このように、証人の数に応じて、話が異なっているのである。

 ギルバートは、194112月に起こったとされている事件を次のように描いている。

 

「ユダヤ人は狭軌の鉄道でコウォからポヴィエルツィエに運ばれ、ついで、鞭で川の方に追い立てられ、ザヴァトキ村の工場に閉じ込められた。…水も食べ物も与えられずに一夜をすごし、翌日、ヘウムノの森までトラックで運ばれ、その過程で、排気ガスで窒息死させられた。…合計5台のトラックが使われていた。」(ギルバート[15]83頁)

 

 だが、この記述は通説とは異なっている。通説では、犠牲者は1941年には館で殺され、ガス車の数は、5台ではなく23台となっているからである。

 犠牲者がクルムホフ・ヘウムノのどこに到着したのかも定かではない。大半の話は、犠牲者がトラックで館に運ばれたと述べているが、教会か穀倉で降ろされたという話もある(『大量殺戮』119頁)。

 『大量殺戮』にはヴァルトブリュッケン・コウォへのユダヤ人犠牲者の移送を目撃したポーランド人鉄道従業員が登場している。彼は、目撃したとされることをポーランド法廷で次のように証言している。

 

1942年夏、数ヶ月間、ウッチとコウォのあいだを毎日、同じ列車が運行していた。この列車は、20両の、大半が15トンの閉蓋貨車で構成されていた。…貨車は満杯であった。[鉄道従業員は閉蓋貨車の中をのぞきこむことができたのであろうか?]当初、何回ぐらい、このような列車がユダヤ人をコウォに運んでいたのかを数えることができた。それは101回であったが[すなわち、101日。3ヶ月間]、ヘウムノへの移送が終わらないことを知ったので、数えるのをやめてしまった。」(121頁)

 

 この証言は、ウッチのユダヤ人会議が記したノートに由来するタイム・テーブルとは矛盾している。そのタイム・テーブルでは、1942515日から95日のあいだ、すなわち、この鉄道従業員の証言する夏の数ヶ月のあいだ、ウッチからの移送は中止されていたからである(『大量殺戮』132頁)。ウッチからのユダヤ人の再定住に関するその他の研究書も、ウッチのユダヤ人会議の作成したノートに言及しており、それを信頼できるものとみなしている(例えば、リュッケルル276f頁、288頁、ヒルバーグ『絶滅』361頁)。

 

6. 犠牲者の到着

 目撃証人の話では、クルムホフ・ヘウムノ到着後の犠牲者の積み降ろしは、さまざまなかたちであった。ある証人は思い出すことができないという。

 

「私は、トラックがどこで積み降ろしたのか正確に覚えていていない。当初はヘウムノの教会の前で、のちには穀倉の前で移送集団が降ろされたと考えている。」(『大量殺戮』119頁)

 

 当初、この到着集団があたたかく迎えられていた光景を伝える証言もある。

 

「到着者に対する待遇がよいものであるとの印象を強めるために、彼らが乗り物を降りるときには、手が差し伸べられたこともあった。」(リュッケルル269頁)

 

 だが、到着者は「皮の鞭を持った警官によって入り口から館の庭に追い立てられていった」(『大量殺戮』119頁)のであるから、このような光景はありえなかったはずである。また、のちには、トラックはそのまま木造の壁の入り口を通って、館の庭に入っていったということになっている(『大量殺戮』119頁、IMT, Vol. VIII, p. 363)。リュッケルルは二つの話を結び付けて、1台だけが館の庭に入り、それ以外のトラックは外で待たなくてはならなかったと考えている(269頁)。

 到着者たちは館の庭に集められて、分隊長もしくは分隊長代理もしくは数名の分隊員から、あたたかい言葉で歓迎された。彼らはこう説明したという。

 

「君たちはドイツで働くことになるが、まず、害虫駆除のために、入浴し、衣服は手に持っていなくてはならない。」(リュッケルル269頁)

 

 ラカー(160頁)、ネレッセン(56f139頁)、クレー(371頁)、『大量殺戮』(122140f頁)、ニュルンベルク裁判記録(IMT Vol. VIII, p. 363)もほぼ同一である。クルムホフの歴史叙述の中で、この点は、すべての叙述が一致している数少ない箇所の一つである。

 しかし、一連の出来事の詳細については、かなりくいちがっている。ユダヤ人は衣服を脱ぎ、宝石をはずし、文書と貴重品を手に持っているように求められた。そのために、(彼らは)、(a)「建物の中へ」(ネレッセン57頁)、(b)館のホールの中へ(『大量殺戮』123頁)、もしくは「廊下の中へ」(ネレッセン139頁)、(c)「よく暖房された大きな部屋の中へ」(ラカー160頁)、館の2階へ(IMT, Vol. VIII, p. 363)、「上の部屋へ」(『大量殺戮』117頁)、(d)「後ろの大きな部屋へ」(リュッケルル269頁)、(e)二つの部屋へ(『大量殺戮』122124頁)(連れて行かれた)という。

 

7. 犠牲者の殺害

 降車場はこの館の横出口のところに作られており、全体がすでにフェンスで囲まれていたにもかかわらず、さらに、外からの目を遮断する木造の壁で隠されていた(クレー371頁、『大量殺戮』123125f頁、リュッケルル266270頁)。犠牲者は脱衣後に、看守に連れられて館の地下の廊下のところまで歩いていった。その廊下は、館の横の降車場に駐車しているトラックとつながっていた。トラックが満杯となると、後部ドアが閉じられ、排気ガスのホースが特別装置のところにつながれ、エンジンが始動した。囚人は、車内に入ってくる排気ガスによって、数分で殺された。(ネレッセン139f頁、リュッケルル271291頁)。しかし、この装置はしばしば停止してしまい、手順全体が効果的ではなかったと主張する研究者もいる(クレー371頁、ヘス162頁、セレニイ『深淵』127頁、ライトリンガー154f頁)。

 

「裸の人々は、降車場のガストラックに入らなくてはならなかった。運転手は降車場の入り口に向かってトラックを駐車させていた。横のドアが開かれたのちに、閉ざされた空間を降車場に作り出すためであった。ガストラックの床と同じ高さの、まったく閉ざされた床を作り出すためであった。」(リュッケルル270頁)

 

「横のドアが開かれると、降車場にまったく閉ざされた空間が作り出され、外からはまったく見ることができなかった。」(『大量殺戮』126頁)

 

 『大量殺戮』やリュッケルルが引用している目撃証人は、降車場で起っていることを目撃することができなかったはずである。にもかかわらず、以下のような証言が存在する。

 

「私は、命令されたとおりに、館の右側に行った。そこでは、降車場にガストラックが停車していた。…私は、ユダヤ人が地下に連れて行かれて、降車場を上って、ドアの開いているガストラックに入っていくのを見た。」(『大量殺戮』125頁)

 

 看守は外から事態を見ることができなかったにもかかわらず、降車場の外に待機しており、そのために、『大量殺戮』によると、犠牲者はどこにも逃げることができなかったという。

 

「ユダヤ人が降車場に上っていくとき、彼らを引き連れていたポーランド人と警察官以外に、逃亡を防ぐためにガストラックの隣の降車場の外に待機する別の警察官が彼らを監視していた。」(リュッケルル270頁)

 

 この看守は、外から遮断された壁を通して、一体どのようにして、犠牲者を「監視する」ことができたのであろうか。謎である。

 犠牲者全員が死亡すると、トラックは森に向かい、死体は壕に投げ込まれたという。しかし、アイヒマンは、イェルサレム裁判で、まったく別の光景を証言している。

 

「ユダヤ人は服を脱がなくてはならなかった。前方にドアをもつ密閉トラックがやってきた。貨車が貨車止めのところまでやってきた。そこで、裸のユダヤ人は中に押しこめられた。ドアが閉じられ、トラックは出発した。」(ハウズナー[16]89頁)

 

 これは、運転席を介して前方から積み降ろしをするまったく新しい型のトラックなのだろうか。そして、すべては、町の中心、すなわち「貨車止め」のあるところで起り、ここで裸のユダヤ人はトラックの到着を待たねばならなかった。この研究書のドイツ語短縮版[17]では、翻訳者(あるいは出版者)は、この信じがたいような話を読者にあえて伝えようとはしていない。トラックが「降車場」にやってきて、ユダヤ人犠牲者がそこに入っていったということになっている(105頁)。アイヒマンが裁判の前に尋問官に語った話も少々異なっている。尋問はドイツ語で行なわれ、その録音内容が公表されている[18]。そこにはこうある。

 

1941年秋、…私はヴァルテ管区のフウムに派遣された。そこで次のことを目撃した。この部屋の5倍ほどの部屋にユダヤ人が押し込められていた。彼らは服を脱がなくてはならなかった。完全に密閉されたドラックがやってきて、ドアが開くと、裸のユダヤ人が降車場に連れてこられて、トラックの中に入らなくてはならなかった。そのあとで、トラックのドアが閉じられ、出発した。」(71頁)

 

 アイヒマンが裁判でもこのように証言したとすれば、重大な誤訳が生じたのであろうし、イスラエルの検事ハウズナーも彼の話を誤解したにちがいない。

 

7.1 クルムホフ・ヘウムノのガス車

 クルムホフ・ヘウムノは「ガス車ステーション」であったといわれている。そして、そのガストラックとは、国家保安中央本部の「特別車両」(Sonderwagen)であったという。

 さらに、コブレンツの連邦文書館の194265日の文書(R58/871)が、ガス車説の証拠であるという。この文書は、国家保安中央本部の「書類メモ」である。私は、別のところで、この「文書」がまったくの偽造であることを明らかにした[19]

 このメモは次のように始まっている。

 

たとえば、1941年12月以降、3両の配置車両を使って97000が処理されたが、乗り物にはまったく欠陥が生じなかった。クルムホフでの知られている爆発は、例外とみなすべきである。その原因は誤った操作のためである。

 

 リュッケルルはこれについてこう書いている(291頁)。

 

「秘密メモのこの部分は、明らかにヘウムノ収容所のことを指している。絶滅行動の開始(194112月)およびガス車の数(3両の配置車両)を正確に指摘しており、この件をヘウムノでのガス車の爆発と直接結び付けているからである。」

 

 「1941年12月以降、…3両の配置車両を使って。」『大量殺戮』はガス車の起源に関する章の中で、この時期、すなわち194112月に、ザウラー社の車台の搬送が依然として交渉されており、その搬送のあとに、ガウブシャト社の車体が備えられることになっていたと説明している。だから、完成車両は1942年春以前には配送されていなかったはずである。だとすると、これらの3両は、194112月から一体どのようにして稼動していたのであろうか。

 「97000が処理された」。カモフラージュ言語が使われていたと仮定しても、この文章が殺人を意味していることにはならない。さらに、97000という数字は、リュッケルルが『大量殺戮』の結論部分(132頁)で採用した統計数字、すなわちクルムホフ・ヘウムノでの犠牲者に等しいとみなされているウッチからの移送者数とも矛盾している。リュッケルルによると(276頁)、19425月までにウッチから移送されたユダヤ人は55000名だからである。もし、これがクルムホフ・ヘウムノ犠牲者であったとすると、この数が194265日の書類メモに記載されていたはずである。

 「クルムホフでの知られている爆発」。実際には、このメモ以外に、この爆発事件について情報はない。

 『大量殺戮』は、クルムホフ・ヘウムノのガストラックが国家保安中央本部の「特別車両」であったことにまったく疑いを抱いていない。この件については別の論文で検証した。

 

「分隊はベルリンからガス車を受け取った。」(114頁)

「それらは新品で、…国家保安中央本部から…われわれのもとに送られてきた。」(115頁)

 

 しかし、この2つのセンテンスにあいだに、「この車両はガソリン・エンジンのルノー中型トラックであった」(114頁)というセンテンスがあり、驚いてしまう。

 どうしてこのようなことになっているのか。国家保安中央本部は、ディーゼル・エンジンのザウラー車製トラックをガストラックに改良したことになっている。ガソリン・エンジンのルノー社製車両が、一体どこから突然飛び出してくるのであろうか。ところで、アイヒマンも次のように述べている。

 

Uボートのディーゼル・エンジンからの排気ガスを使った殺人実験が、…ルブリン郊外で行なわれた。当時使われていた最新車両は、可動式のガストラックであり、それは、ヘウム(クルム)絶滅収容所で始めて使われた。」(ハウズナー『絶滅』105頁)

 

7.2 大量埋葬地と焼却炉

 SSは、死体を処理するために、大量埋葬地を掘らせたという。近くの森がそのために確保されていた。ここで、ユダヤ人囚人、いわゆる森労務班がこの仕事を行なわなくてはならなかったという。

 クルムホフ・ヘウムノの生存者の一人が、イェルサレムでのアイヒマン裁判で、次のように証言している。

 

「ここで、私たちは壕を掘らなくてはなりませんでした。約25名がこの作業に従事しなくてはなりませんでした。私たちは早朝にそこへ出かけました。1941年末、新年の2日前の冬の6時半でしたので、まだあたりは暗かったです。」(ネレッセン140頁)。

 

 検事は、これが壕であることを気に入らなかったようで、もっと正確に問いただした。

 

「埋葬地を掘ったのですね。」

 

恐ろしい事件の生存者であるユダヤ人証人は、これに反論していない。

 彼らは、大地が石のように凍りついている真冬に壕を掘ったことになる。リュッケルルは、これが囚人の仕事としても合理的ではないと考えて、堀削機を使って大きな壕を掘らせたとみなしている(リュッケルル268頁)

 クラウスニク/ヴィルヘルムは[20]、この時期に埋葬地を掘ることがナンセンスであると考えている。「[194111月]の後すぐにはじまる厳冬状態の下では」、「大量埋葬地の掘り起しがきわめて困難となったので」、「作戦を中止しなくてはならなかった」(547頁)というのである。

 こうした大量埋葬地の数については、諸説ある。2つという証言もあれば、3つ、4つという証言もある。埋葬地の長さ、幅、深さについても諸説ある。

 『大量殺戮』に証言が引用されている証人は、それぞれが幅10m、深さ3mで、長さ30mのものが3つ、12mのものが1つあったと述べている(115頁)。また、埋葬地は森の中の3つの開けた場所に別々にあり、狭い場所にあったものもあるので、ガストラックは壕のそばにまで行って、積荷を降ろすことができなかったとも述べている。

 埋葬地の幅は68mほどであったが、深さは4mであったという証言もあれば(リュッケルル272頁)、幅4m、深さ3m、長さ5メートルであったという証言もある(リュッケルル274頁)。ラカー(160頁)は、幅ほぼ2m、深さ5mの壕について記している。その他の研究者は壕の大きさについては明らかにしておらず、「大量埋葬地(単数)」(クレー372頁)、「大量埋葬地(複数)」(ライトリンガー153頁、279頁)に言及しているだけである。

 1942年夏、大量埋葬地には深刻な問題が発生したという。

 

「いくつかの場所で、…血液が大きな流れとなってあふれだし、…埋葬地の近くに血の塊の池を作り出した。」(リュッケルル273f頁)

 

 埋葬地の死体からガスが放出され、腐敗した死体からの強い悪臭が漂っていたという(クレー372頁、リュッケルル273頁)。このために、死体は掘り起こされて、最初は戸外の壕で、のちには自家製の「炉」で焼却されたという。

 

1942年夏、彼らは埋葬地をあばき、死体を焼却し始めた。」

 

 これはリュッケルル(273頁)に登場する目撃証人による。リュッケルルが数行前に引用している別の証人は、焼却が始まったのは1942年秋であったと考えている。賢明にも「掘り出し」と語っているクレーは、それが秋のことであったと考えているし(372頁)、ヒルバーグもそうである(『絶滅』661頁)。結局、リュッケルルは、自分の証人の証言が矛盾していることを認め、それがともに間違っているとみなして、死体の発掘を冬のことにずらしている。彼は次のように述べている。

 

1942年末から1943年春にかけて、…大量埋葬地に埋められていた死体が掘り起こされて、焼却された。そのとき壕はならされた。」(280頁)

 

 ついで、掘り起こされた死体を焼却しなくてはならないのであるが、『大量殺戮』はこれについて次のように述べている。

 

[森林収容所の中に]「2つの焼却炉がたてられた。それはPolizei-Oberleutnant Gustav Hによって設計されたものであった。…焼却炉の幅は10m、長さは56mであった。それは、地面の外には出ていなかった。煙突もなかった。線路で作られている焼却格子のある下部に向かって細くなっていた。」(115頁)

 

 しかし、『大量殺戮』の共著者であるリュッケルルは、自分の著作『民族社会主義者の絶滅収容所』では、まったく異なった光景を描いている。この2番目の話では、焼却炉はすぐにはたてられず、当初、死体は5×4m4つの壕で焼却されたことになっている。

 

「大量埋葬地の死体は、これらの壕の中に積み重ねられ、火薬をかけられて、火がつけられた。」(274頁)

 

 さらに、焼却格子としていくつかの線路を使った戸外の壕から構成される焼却炉もあったという(リュッケルル273頁)。のちに大きな炉もつくられ――2つではなく1つ――、この炉には45mの煙突があったというが(リュッケルル274頁)、それは、煙突がなかったことを強調している『大量殺戮』に登場する証人の証言とは矛盾している。

 しかし、死体の焼却については3番目の話もある。その話の主人公は、悪名高いSS大佐パウル・ブローベルと「彼の焼却部隊1005」である。この部隊は、東部占領地域での大量埋葬地と死体のすべての痕跡を消し去るという特別な目的のために、ハイドリヒによって彼の死(194264日)の直前に設立されたことになっている(ライトリンガー153頁)。

 ブローベルと彼の部隊――ユダヤ人強制労働従事者、ユダヤ人は担当作業を終えるとすぐに射殺されていた(ヘス[21]162頁)ので、ブローベルはアウシュヴィッツ収容所から継続的にユダヤ人労働者を受け取っていた――が仕事を始め、クルムホフ・ヘウムノで死体を「掘り起こし」始めた。これは、クレーの記述(372頁)とはマッチしているが、森林収容所のユダヤ人特別労務班がこの仕事を行なったとするリュッケルルの話とは(273頁)食い違っている。そのあと、ブローベルは実験を始めたという。

 

「彼は薪の山を築いたり、原始的な炉を作ったり、ダイナマイトによる爆破さえも試みた。」(ヒルバーグ661頁)

 

 「しかし、これは部分的にしか成功しなかった」とヘスは述べている(162頁)。にもかかわらず、ヘスは、「ダイナマイトを使って大量埋葬地を消し去ろうとしたブローベルの失敗を視察する」(ライトリンガー153頁)ために、クルムホフ・ヘウムノに出かけた。ライトリンガーはこう続けている。

 

「ヒムラーが…死体の灰もすべて破棄するようにブローベルに命じていたので、この方法が使われた。」

 

 この方法はうまくいかず、死体を完全に消し去ることができなかったので、

 

「ブローベルは骨粉砕機も使った。」(ライトリンガー153頁)

 

 しかし、結局は、何らかの方法を使って死体を灰にすることができたので、その灰は、

 

(a)           「広い森にばら撒かれた」(ヘス162頁)

(b)           「壕に埋められるか川に流された」(ネレッセン57頁)

(c)           「大きな袋に詰められて、ネル川に流された」(リュッケルル273頁)

(d)           「夜、橋の上からヴァルテ川に流された」(クレー372頁)

 

 その後、森は清掃された(クレー372頁)。

 

7.3 子供とロシア人

 『大量殺戮』は、チェコスロヴァキア、ポーランド、ソ連から子供たちがクルムホフ・ヘウムノに移送されたと述べている(133頁)。しかし、上記に引用した二人の証人は、子供の移送については一回だけしか知らないと述べている。すなわち、一人の証人は、200名の子供を載せた3台のトラックが1942年夏に到着したと述べており、もう一人の証人は、この子供たちはユダヤ人ではなく、ポーランド人のようであったと述べている。リュッケルルもこの移送について言及している。彼は、200名ではなく、414歳までの5075名の子供たちについて言及している。

 

「ポーランド側の調査によると、子供たちの移送集団は、ゲルマン化されえなかった、リディツェからの子供たちであった。」(リュッケルル280頁、注76

 

 彼は、この件に関する証拠は存在しないと付け加えている。

 イェルサレムのヤド・ヴァシェムのファイルには、「ゲルマン化されえなかった、ベーメン・メーレン総督府からの子供たち」についての、194274日から25日まで、すなわち、『大量殺戮』に言及されている時期の書簡が存在している[22]。しかし、ここには、200名とか75名ではなく、115歳までの12名の子供についてが、そのフルネーム、誕生日、誕生地、住所とともに記されている。これらの子供たちは、さらなる適応のために、リッツマンシュタット(ウッチ)のゲシュタポのもとに送られた。この書簡からはそれ以上の情報は得られない。しかし、『大量殺戮』の証人は、これらの子供たちもクルムホフ・ヘウムノで殺されたと主張している。

 ロシア軍捕虜も、非ユダヤ人囚人の殺戮との関連で言及されている。またもや、1942年夏のある日、「軍人」を載せた2台のトラックがやってきた、それを目撃した証人は、その明るい緑色の制服から、彼らがロシア軍捕虜であることがわかったという。トラックはフェンスで囲まれた館の区画に止まった。兵士たちはトラックの中に残っていた。特別分隊の二人の運転手が、トラックの運転手と交替し、トラックを森の方向に走らせ続けた。25分後、トラックは空で戻ってきたという。『大量殺戮』は目撃証人にもとづいて、次のように結論している。

 

「その大半が・・・ガス処刑され、残りは射殺された。」(『大量殺戮』134f頁)

 

 この本の著者たちは、この件の典拠を明らかにしていない。

 トラックの到着を目撃したポーランド人証人は、ヴァルトブリュッケンの住民であり、特別分隊のために働いていた。彼は死体を藁の袋に詰めていたという。彼が道の真ん中でこれを行なっていたとは信じがたい。おそらく、高い板のフェンスで囲まれていたといわれている館の庭で行なっていたのであろう。ロシア兵を載せたトラックが止まったのは入り口の外側であった。このような状況の下では、証人はせいぜい乗り物の騒音を耳にすることができるだけで、板のフェンスがあるために、何かを目にすることは不可能であろう。にもかかわらず、この証人は軍服を正確に描写しているだけではなく、トラックに座って残っていた兵士の一人が片足であったとまで述べている。だから、彼は、板のフェンスだけではなく、トラックの横壁を透き通して、目にすることができたのである。彼がそのような供述を行なっているのは、そうしたほうが、ポーランド人対独協力者としての自分の立場を救うことになると判断したためではないだろうか。

 『大量殺戮』は、ロシア軍兵士がトラックで森に運ばれ、そこで、何名かが「ガス処刑」されたと述べている。しかし、どうしてそのようなことが行なわれたのかは説明していない。特別に用意されたガストラックが館の庭に駐車しており、兵士たちは、囚人たちをトラックからガストラックに移していないからである。さらに、一部が「ガス処刑」されて、残りが射殺されなくてはならない理由も明らかではない。

 

8. 略奪品

 すでに見てきたように、犠牲者たちは服を脱ぐとき、宝石や貴重品および金を手渡さなくてはならなかった。この作業は監督下で行なわれたという。にもかかわらず、指輪は処刑後に死体から取り外されている(『大量殺戮』117頁、リュッケルル272頁、ネレッセン57140頁)。

 特別分隊は、宝石と貴重品を整理するために配置されていた。死体からぬかれた金歯は、袋に詰められて森から館に運ばれたという。

 

「犠牲者の集められた貴重品(宝石、時計、コイン、金歯、毛皮のコートその他)は、整理され、登録され、ウッチのゲットー管理局に送られた。金銭も同様であった。それは、絶滅行動の終わりには、2650000ライヒ・マルクに達した。」(リュッケルル272f頁)

 

 ウッチからの移送の犠牲者は社会の最富裕層に属してはいなかった。だから、殺戮からのこの膨大な戦利品は驚くべきことである。移送リストを編集したユダヤ人会議議長ハイム・ルムコフスキは、「悪い奴から追い払え」という格言にしたがっていたからである。

 

「私は、ゲットーの潰瘍となっているような部分を移送に割り当てるというかたちで問題を解決した。移送者リストは、地下生活者[23]、浮きかす、ゲットーに有害な個々人から構成されていた。」(ダヴィドヴィチ279頁)

 

 犯罪者と「望まれざる者」が移送されると、再定住委員会はルムコフスキの監督のもとで社会局のファイルをチェックし、160000名のゲットー住民のうち80%が生活保護を受けていることを発見した。彼らから次の犠牲者が選別用に移送された(ダヴィドヴィチ279f頁)。

 移送者がクルムホフ・ヘウムノに連行され、そこで殺されたと仮定すると、このような富が一体どこからどのようにして、殺人者たちの手に落ちたのであろうかという疑問が生じるはずである。

 

「ヘウムノに到着した人々は、服装も栄養状態も悪かった。」(280頁)

 

 ダヴィドヴィチには「貧しい、服装の悪い男性、女性、子供たち」とあり(279頁)、ポリャーコフは移送者を「無為徒食者」と呼んでいる(152頁)。

 クルムホフ・ヘウムノの犠牲者の衣服がさまざまな場所に送られたが、あまりにもみすぼらしく、役に立たなかったこともあって、返還されてきたという話もある(ヒルバーグ『絶滅』644頁)。

 だが、すべての犠牲者が百万長者であったとしても、殺人行動による略奪品の量は定説にはあてはまらない。量が殺された人々の数とマッチしないのである。例えば、ウッチのゲットー管理局からポーゼンの割り当て局あての1942527日のテレックスにはこうある。

 

「特別分隊ランゲは衣服を積んだ約370台の貨車を持っている、その移送には900台ほどのトラックとトレーラーが必要である。」(リュッケルル275頁からの引用)

 

 特別分隊ランゲは、その初代隊長の名にちなんだクルムホフ・ヘウムノ分隊であった。このテレックスの時期19425月までに、55000名がウッチ・ゲットーから移送されている(『大量殺戮』132頁、ヒルバーグ『絶滅』361頁)。55000名が1100台のトラック、1台につき50名である。この55000名の衣服の移送には、ほぼ2倍の空間、すなわち1800台のトラック(もしくは900台トレーラーつきトラック)が必要となる。移送者は、最小の荷物を持って、住居を去らなくてはならなかった。

 

9. 二局面のクルムホフ・ヘウムノ絶滅収容所

 クルムホフ・ヘウムノについてのさまざまな話を理解するためには、この収容所には2回の「行動局面」があったことを知っておくことは重要である。

 

9.1           第一の行動局面

 第一の局面は1941年末から19434月であった。この第一期、絶滅過程は、次のような話となっている。クルムホフ・ヘウムノの館までの犠牲者の移送、そこに駐車しているガストラックでの犠牲者の殺戮、近くの森までの(ガストラック内の)死体の搬送、死体の埋葬、のちには森での死体の焼却、空のトラックの館への帰還、そこでの清掃。ただし、クレーでは(372頁)、トラックは森で清掃された。

 第一の行動局面の終わりごろに、大量埋葬地が開かれ、死体は焼却された。これは1942年夏か秋であったという(リュッケルル273頁、クレー372頁、ヒルバーグ『絶滅』661頁)。リュッケルルは別の箇所で(280頁)、死体の焼却を1942年末から1943年春のあいだの時期としている。

 SS19434月に館を爆破し、焼却炉を破壊し、すべての痕跡を消し去ったという(『大量殺戮』135頁、ネレッセン57頁、リュッケルル281頁)。リュッケルルの著作を読んでいないだけではなく、ポーランド側のファイルも検討していないクレーは、この時期に館が爆破されたことについてはまったく知らない。彼によると、第二の行動局面での殺戮も館の区画で行なわれたことになっている(371頁)。

 そして、「ボートマン分隊がヘウムノを去り、ダルマティアに向かった」(ライトリンガー371頁、『大量殺戮』135頁、ネレッセン57頁、リュッケルル280281頁、各研究書の日付は一致していない)。

 

9.2 第二の行動局面

 1年後の1944年、ボートマン分隊は新しい絶滅行動を始めるために突然クルムホフ・ヘウムノに戻ってきたという。19442月(ライトリンガー161頁、279頁)、19444月(リュッケルル283頁、『大量殺戮』138頁、ヒルバーグ『絶滅』604頁)、彼らは戻ってきて、自分たちの殺戮業務を再開したという。

 驚くべきことに、『大量殺戮』は、クルムホフ・ヘウムノでの新しい局面が、第一の行動局面の痕跡をすべて消し去り、新しい大量埋葬地を開いて、死体を焼却することから始められたと考えている。

 

19444月、ポーゼンのボートマンからテレックスがヴァイマールに着いた。その中で、彼らは、クルムホフ・ヘウムノ絶滅収容所に戻ってくることをわれわれに要請していた。われわれはクルムホフ・ヘウムノに出発した。ボートマンはクルムホフでわれわれを歓迎した。ボートマンは、SS全国指導者ヒムラーの命令により、クルムホフでのすべての痕跡を消し去らなくてはならないと、われわれに説明した。森林収容所の大量埋葬地が開かれた。この埋葬地の死体は、ユダヤ人労務班の助けを借りて、以前に作られていた炉の中で焼却された。」(『大量殺戮』142頁)

 

 しかし、すでに考察したように、このことは1年前に行なわれていたはずである。すなわち、もはや大量埋葬地は存在しておらず、死体もとっくに消え去っており、灰はばら撒かれるか、埋められていたはずである。

 収容所の第二の局面についての話は次のようになっている。SS分隊の到着後に、2つの木造バラックが森の中に建てられた。「人の背よりも高い板で仕切られた道」(リュッケルル283頁)が、一つのバラックから降車場にまでつながっており、降車場は、そこに駐車しているガストラックとつながっていた。この情景は、第一の局面での館の情景と酷似している。リュッケルルは、この情景を第二の局面でも使ったのである。

 犠牲者は鉄道でクルムホフ・ヘウムノまで運ばれ、教会で一夜をすごした、翌朝、森に連れて行かれ、バラックの中で服を脱ぎ、ガストラックの中に入っていった。殺戮後、死体は1つか2つの炉で焼却された。この時期、SS准尉ヴァルター・ピラーが収容所長代理であった。彼はソ連の捕虜となったときの「自発的」な供述の中で、次のように述べている[24]

 

「ユダヤ人が焼却された森にある2つのバラックは、私がクルムホフにやってきたときにたてられた。死体を焼却するために使われた2つの炉は、まだなかった。2つのバラックが完成したあとに、SS准尉ルンゲが、リッツマンシュタット・ゲットーからのユダヤ人労働者の助けを借りて、2つの炉を作った。…リッツマンシュタット・ゲットーからのユダヤ人の絶滅が始まったのは19446月初頭か5月末であったと思う。それは、19448月中旬まで続いた。」(『大量殺戮』138f頁)

 

 だが、リュッケルルは、炉は一つしかなかったと述べている(283頁)。ピラーは2つのバラックの目的を次のように説明している。

 

「例えば、700名の移送集団の半分、すなわち350名が、もし可能であれば家族ごとにグループを組ませて、すでに言及した森にトラックで運ばれた。1つの木造の小屋があり、それはSS分隊がたてたものであるが、男性用と女性用に2つの部屋に分けられており、衣服をつるすためのフックと棚を備えていた。人々はトラックを降りて、木造のフェンスで周りを囲まれた小屋の前に整列するように求められた。森には2つの小屋だけが建てられており、長さ20m、幅10mだった。」(『大量殺戮』140頁)

 

 フェンスの入り口には「浴室へ」という標識があり、小屋の中央部の前には、「医者バラック9へ」というもう一つの標識があったという。

 

「全員が丸裸となると、彼らは、女性が最初に、すぐあとを男性が列を作って、『浴場へ』との標識のついたドアを通っていった。ドアの後ろには、板のフェンスで隠された長さ2025m、幅11/2mの道があった。この道は90度曲がって降車場に続いていた。降車場の前には密閉されたトラック(特別車両)が待機しており、ユダヤ人はこのトラックの中に入らなくてはならなかった。7090名ほどがトラックに詰め込まれると、ドアが閉じられ、トラックは、200mほど離れた炉に向かった。運転手のラアブが、この途中でバルブを開き、ガスが放出された。これは、ガソリン・エンジンからのガスであった。…」(『大量殺戮』141頁)

 

 ピラーは、犠牲者はガソリン・エンジンの排気ガスで殺されたと主張しているが、これとは異なって、リュッケルルは次のように述べている。

 

2台のトラックが交互に配置されていた。それは、以前にヘウムノで使われていたのと同じ車両であった。」(285頁)

 

 だが、これらの車両は、他の典拠資料からも知られているように、ザウラー社製のディーゼル・エンジン・トラックであったはずである(7.1節参照)。

 

 ピラーは続けている。

 

「特別トラックが炉のところに着くと、ラアブがトラックを開け、死体が炉に投げ込まれた。短時間(15分ほど)で焼却され、灰となった。」(『大量殺戮』142頁)

 

 森の施設以外に、第二の行動局面のために、以前の館の庭に別の施設がたてられたという。犠牲者からの貴重品を保管する小屋、その隣に、もはや使われることのない衣服の棚の着いたテントである。この第二の局面のあいだ、ユダヤ人労働部隊は、穀倉で生活し、ポーランド人囚人は、ダイナマイトによる爆破でも残った館の地下で暮らさなくてはならなかった(リュッケルル283頁)。『大量殺戮』はこれとは異なって、上階と下階の部屋を持つ監獄について語っている(143頁)。ネレッセンは(141頁)、大半の研究書では第二の行動局面の開始時期とみなされている時期よりもかなり前、すなわち1944年初頭に、クルムホフ・ヘウムノに連れてこられた4名の逃亡者の一人の発言を引用している。この逃亡者は、館区画で働いていた「宿舎労務班」に属していた。この証人は、イェルサレムでのアイヒマン裁判のときに、ガストラックに入っていく人々の様子を次のように証言している。

 

「彼らは石鹸とタオルを受け取り、シャワーを浴びに行くのだといわれていました。80100名がトラックの中に入らなくてはなりませんでした。ドアが閉じられると、ガスが放出され、彼らは殺されました。」

 

 しかし、この第二の局面のときに、「宿舎労務班」として、このようなことを目撃することはありえなかった。トラックは、教会で一夜をすごした犠牲者を教会のところで積み込み、そこから直接森に向かっていったからである。ピラーの主張するように、ガストラックに80100名もしくは7090名を積み込んだという話は、30354050名、最大でも70名を詰め込んだという別の話と矛盾している(『大量殺戮』122f頁、128頁、リュッケルル272頁)。

 ヒルバーグ(『絶滅』604頁)によると、この第二の局面の殺戮行動はすでに19447月に終わっていた。他の研究者は、「死の仕事」(ネレッセン)の終わりを、その数ヵ月後(ネレッセン57頁)、8月中旬(『大量殺戮』139頁)、「占領の終了時期」(クレー371頁)としている。その後は、ユダヤ人労働者は清掃の仕事だけに従事し(リュッケルル286頁)、「SS特別分隊は19452月初頭までクルムホフ・ヘウムノにとどまった」という(『大量殺戮』139頁)。

 SS特別分隊は1945117日から18日にかけての夜に、生き残っていたユダヤ人労働者を射殺し始めた(リュッケルル287頁、『大量殺戮』143頁、ポリャーコフ197頁)。この時、二人の囚人、シモン・スレブニクとモルデハイ・ズラフスキが逃亡に成功したという。

 

9.3 第二の行動局面での犠牲者数

 ウッチからの移送リストが、1944年にクルムホフ・ヘウムノに移送された人々の数のもとになっているが、犠牲者の数は異なっている。

 リュッケルルは、ウッチのユダヤ人会議の情報に言及している。これによると、合計7176名からなる9つの移送集団が1944623日から714日のあいだにウッチを離れた。

 一方、ピラーは、リップマンシュタット・ゲットーからのユダヤ人の絶滅は5月末か6月初頭に始まり、8月中旬まで続いたと述べている。毎週、300名か700名からなる3つの移送集団が到着したという。彼は、すべての統計上のルールを否定して、「700名が基本の数字であるとみなすであろう」と続けている。彼は、その少し前には移送の開始が5月末か6月初頭であったと述べているにもかかわらず、それを5月中旬までにさかのぼらせることによって、自分が分隊長代理であった時期には、合計25200名が殺されたとの結論に達している。

 

「ユダヤ人の犠牲者について、正確な数字を述べることはできないが、誤りがあったとしても、それは誤差の範囲に入るであろう。」(『大量殺戮』139頁)

 

10. 証人

 冒頭ですでに指摘したように、クルムホフ・ヘウムノでの事件は目撃証言だけにもとづいて知ることができる。

 この証人の何名かは、1962/63年にボンで開かれた郡法廷でのクルムホフ裁判の被告であり[25]、また、絶滅収容所の第一の行動局面と第二の行動局面からの逃亡者であった。リュッケルルは自分の研究の中で、この刑事裁判の結果を利用している。裁判記録にアクセスすることはできないが、判決は公表されており、検証可能である[26]

 事件に直接関与した人物以外に、このテーマに関しては、二人の人物を挙げておくべきであろう。クルムホフの東15kmほどのところにある町グラボウ出身のラビ・シュルマン[27]とワルシャワ・ゲットーの地下文書を管理していたエマヌエル・リンゲルブルム博士である。この二人は、クルムホフについての「ニュース」を広める上で、重要な役割を果たしたからである。

 1942119日、ラビ・シュルマンは次のような書簡を書いている。

 

「神のご加護のために助かった目撃者が私のもとを訪れました。…この人物からすべてを知りました。絶滅が行なわれている町はヘウムノです。…二つのやり方で殺人が行なわれています。射殺とガス処刑です。…数日にわたって、数千のユダヤ人がウッチから連行され、同じように処分されました。」(ラカー163f頁、[28]、ポリャーコフ153f頁、[29]

 

 ラビ・シュルマンがこの書簡を本当に書いたのかは定かではない。ラカーは彼の名前を括弧でくくっており、それは、書簡には署名がないことを示唆しているからである。また、誰にあてた書簡かも定かではない。ラカーは、シュルマンの義理の兄弟あてであり、「私の親愛なる」という書き出しが使われていたと考えている。ポリャーコフは、シュルマンの友人あてと考えており、「私の親愛なる友人たち」と記している(153頁)。書簡でだけではこれも定かではない。

 一方、ダヴィドヴィチは、まったく別の見解を抱いている。この書簡は封書ではなく手紙であり、シュルマンがウッチの知人にあてたものだというのである。その中で、シュルマンはヘウムノからの3名のユダヤ人逃亡者がヘウムノについて報告したという。

 

「これは死の収容所についてのウッチでの最初のニュースであった。」(ダヴィドヴィチ281頁)

 

 三番目の話もまったく異なっている。それによると、ラビ・シュルマンが、ウッチのユダヤ人会議の長老ハイム・ルムコフスキのもとにやってきて、情報を求めたところ、ルムコフスキがヘウムノ収容所についての情報を彼に提供したという(ラカー160頁)。

 書簡にあるように、シュルマンを訪ねたのは一人の逃亡者であったのか、それとも数名であったのか(ラカー160f頁、脚注)、3名か4名であったのか(ダヴィドヴィチ281頁)、これも定かではない。

 研究書には、クルムホフからの逃亡者についていろいろな説が掲載されている。『大量殺戮』は次のように述べている。

 

「ほんの数名の囚人が『労働労務班』からの逃亡に成功した。最初の人物はヤコフ・グロヤノフスキであった。」(131頁)

 

 彼が逃亡した日付は、1942119日となっている(328頁)。彼はワルシャワにやってきて、リンゲルブルムと接触した。そして、「クルムホフの殺戮施設についての自分の報告」を手渡したという。グロヤノフスキはそのあとで、ゲットーで死んだが、彼の報告はゲットーの廃墟にあったリンゲルブルムのファイルの中で発見されたという(『大量殺戮』131頁)。しかし、ドイツ語版のリンゲルブルムの『日記』[30]には、グロヤノフスキの名前は一度も登場しておらず、ヘウムノも一回だけ登場しているにすぎない(リンゲルブルム23頁)。

 他の研究者によると、グロヤノフスキがリンゲルブルムに渡したとされるヘウムノ報告は、「墓堀人の小集団」からのものであった。彼らは19421月にヘウムノを逃亡し、それをワルシャワのリンゲルブルム博士と彼の秘密文書センターに渡したという。

 

「彼らの話は、リンゲルブルムの友人によって書きとめられた。報告は、急便でロンドン、ついで合衆国に送られ、そこから、多くの新聞に登場した。」(ラカー139頁、132136160164273頁、ポリャーコフ153頁)

 

 グロヤノフスキはヘウムノからの最初の逃亡者であったはずであるが、ダヴィドヴィチはそれと矛盾する記述をしている(ダヴィドヴィチ282頁)。1941年末か1942年初頭に二人のユダヤ人が死の収容所を逃亡し、ワルシャワのユダヤ人社会福祉協会と接触したという[31]。彼らの話はそこで記録されたが、ユダヤ人社会福祉協会の助手たちにはあまりにも信じがたいものに見えたので、公表されなかったという。

 グロヤノフスキの前に逃亡したというもう一人の証人は、ミハエル・ポッチレブニクである(『大量殺戮』145頁、リュッケルル274頁、ネレッセン139141頁、ハウズナー236頁)。ポッチレブニクは196165日に、イェルサレムでのアイヒマン裁判のときに証人として登場し、次のように証言している。すなわち、彼は19411228日か29日にヘウムノに連れてこられた(ネレッセン139頁)。最初、館労務班で働いていたが、「翌日」(「新年の二日前」、ネレッセン140頁、したがって、19411230日)、森労務班で働くことになった、森で「数日間」(ネレッセン140頁)働いたのち、車が「火曜日」(194216日の火曜日)にやってきて、自分の家族の死体を運んできた。3日後、逃亡に成功した(ハウズナー236頁)。だから、194219日のことであった。

 グロヤノフスキとポッチレブニクという二人の逃亡者以外に、1945118日の最終的な収容所の解散による殺戮を生き残ったとされる二人の人物がいる。当時14歳のシモン・スレブニク(ポリャーコフ197頁、リュッケルル287頁、ネレッセン141143頁)とモルデハイ・ズラフスキ(ポリャーコフ197頁、リュッケルル287頁)である。スレブニクはイェルサレムでのアイヒマン裁判での証人でもあった。

 

11. 数をめぐる諸説

 クルムホフ・ヘウムノ収容所での絶滅行動の犠牲者となった人々の数は定かではない。十万単位で異なっているほどである。11000(ライトリンガー101頁)、34000(デラルエ[32]257頁)、54990(『ファシズム、ゲットー、大量死』[33]285頁)、少なくとも100000(クレー371頁)、100000以上(ヒルバーグ『絶滅』英語版572頁)、150000(ヒルバーグ『絶滅』ドイツ語版604頁)、少なくとも152565(『大量殺戮』145頁)、300000(ヘーネ431頁)、300000以上(『大量殺戮』145頁)、349000(ダヴィドヴィチ139頁、ネレッセン57頁)、少なくとも340000IMT, Vol. VIII, p. 364)、360000(ギルバート図版169頁)。その他の研究書でも、これ以外の数字が挙がっているが、これだけでも、犠牲者数に関する知識が不確定であることが十分にわかるであろう。挙げられている数字の多くには、これは見積もりにすぎないという注釈がついている。だが、研究者の多くは、実際の犠牲者数は何倍も多いと考えている。

 この見積もりの根拠は、ウッチとその周辺地域のユダヤ人住民の移送である。すなわち、移送者はクルムホフ・ヘウムノに連れてこられて、そこで殺害されたと考えられているのである。

 

12. ユダヤ人住民の疎開

 ユダヤ人移送者の数を計算するには様々な文書資料を利用することができる。まず、ウッチのユダヤ人「長老会議」の統計がある。それは、ワルシャワのユダヤ歴史研究所文書館にあり、『ファシズム、ゲットー、大量死』285頁に掲載されている。

 ユダヤ歴史研究所が公表している表の一つの項目は、「クルムホフ・ヘウムノへの再定住」という題である。しかし、この表題はユダヤ人会議のオリジナル文書からのものではありえない。他の典拠資料によると、統計リストにはクルムホフ・ヘウムノという名称はまったく登場してきていないからである。

 

「統計リストは、これらの移送集団がヘウムノに向かったとは示唆していない。」(リュッケルル293頁)

 

 さらに、ユダヤ人共同体の長老は、移送集団が死の収容所に向かったとはまったく考えていない。

 

「再定住の当初、すなわち、19429月においてさえも、ウッチのユダヤ人会議議長ハイム・ルムコフスキは、何の懸念も抱かず、子供たちが鉄道駅に向かうのに同行しなかった。自分の孤児院にゆとりができるようになったからである。」(ライトリンガー279f頁)

 

 統計リストによると、移送されたユダヤ人の合計は54990であった。

 ユダヤ歴史研究所の出版物に掲載されているもう一つの文書資料的証拠は、ユダヤ人住民の「疎開」について述べているウッチのゲシュタポ報告である(『ファシズム、ゲットー、大量死』285f292f頁)。この報告には、クルムホフ・ヘウムノという名称はまったく登場していない。にもかかわらず、編者たちは、この報告の冒頭に次のような題を付け加えてしまっている。

 

「ウッチ地方のユダヤ人がクルムホフ(ヘウムノ)絶滅収容所に大量移送されたことについてのウッチ・ゲシュタポ状況報告からの抜粋。」

 

 これらのゲシュタポ報告のオリジナル文書は、ポーランドの文書館に保管されているのであろう。だが、他の研究書では、次のようなことが何回も強調されている。

 

「ユダヤ人は不明な目的地に移送された」(ダヴィドヴィチ279283頁、ライトリンガー101頁)。

 

 移送者の一部は、「労働収容所、ルブリン地方の空となったゲットーに移送された」(ライトリンガー279頁)。また、「プリペト沼地の開墾やウクライナのクリヴォイローク近くのユダヤ人農業コロニーのために」移送された(ライトリンガー101頁)。

 

 また、ライトリンガーはこうも述べている。

 

「クリヴォイロークからドネプロペトロフスクに進撃する過程で、特別行動部隊Cは、帝政ロシア時代に設立され、今では集団農場となっている大規模なユダヤ人農業定住地を発見した。…この定住地のユダヤ人の数は、ワルシャワとルブリンでの『再定住行動』によって、ユダヤ人が刈り入れを支援するためにこの村に送られた1942年に増加したことであろう。クリヴォイロークとヘルソンのあいだにあるこれらのユダヤ人集団農場のうちの3つは、かなり大規模であったので、ソ連の『民族管区』を形成していた――スターリンドルフ、カリーニンドルフ、ノヴォ・ズラトポリェ――。」(ライトリンガー265頁)

 

 ライトリンガーは、ザロモン・シュヴァルツが集めた証拠にしたがって、「生き残っていたユダヤ人住民はすべて、19425月末頃までに絶滅された」と続けているが、300頁後では、シュヴァルツの話は信用できないと述べている。「シュヴァルツはまったく恣意的な方法を使って」結論に「たどり着いた」、彼は「ドイツ警察の報告書にはまったく関心を向けていない」、「彼は公式報告を無視している」、その他の信頼できる資料をしりぞけている(ライトリンガー571頁)というのである。ライトリンガーは、シュヴァルツの文献目録には、疑わしい記述があるとまで付け加えている(617頁)。だとすると、ライトリンガーがシュヴァルツの信憑性を非常に低いものとみなしていたとすると、生き残ったユダヤ人全員が「19425月末頃までに絶滅された」というシュヴァルツの話をなぜ信憑性のあるものとみなしているのであろうか。

 19438月、アメリカのユダヤ人会議は世界ユダヤ人会議と共同で、ドイツ軍占領下のヨーロッパ地域のユダヤ人の運命に関する研究を公表している[34]。それによると、ウッチのユダヤ人は1941/1942年に、他のポーランドの町のゲットーに居住地を見つけられない場合には、さまざまな地域に再定住し、ピンスクとロキトノの沼地での作業に従事したという。この二つのユダヤ人組織が嘘をついていないと仮定すれば、この研究は、19438月までは、「クルムホフ・ヘウムノ絶滅収容所」に関しては何も知られていなかったこと、世界に持ち込まれたメッセージは信用されていなかったことを証明している。

 

13. まとめ

 現存の文書資料すべてによると、確実にわかっていることは、当初、ポーランドのユダヤ人住民は地方から、大都市のゲットーに再定住され、そのために、ゲットーは絶望的なほど人口過密となったこと、そして、その後、労働可能な男女がゲットーから選別され、わかっていないもしくは定かではない目的地に移送されたことだけである。こうした目的地の一つが「クルムホフ・ヘウムノ絶滅収容所」であったかどうかについては、本小論で検証した研究書の中にある文書資料的証拠だけでは、確証できない。

 ルードヴィヒスブルクにある「民族社会主義者犯罪調査のための司法行政中央本部」の前検事総長リュッケルル博士は、クルムホフ裁判が終わったのちに次のように述べている。

 

「事件が起ってから長い年月がたっているために、大半の証人の記憶力はいちじるしく減退しており、明らかな記憶の誤りもしばしばであった。この恐ろしい事件を生き残った3名[[35]]――4番目の生存者は死んでいる――は、事件の論理的手順(特定の犯罪の話)についての自分たちの経験を信頼できるように証言し、誤りなく被告の人物確認をするという重荷を背負わされていた。ある場合には、少年期の数ヶ月に、恐ろしい諸事件を経験しなくてはならず、その記憶をさかのぼって証言することは、彼らの能力を超えていた。」(リュッケルル253頁)

 

 こうした状況を考えると、当時の裁判の審理結果をそのまま歴史学の不変の土台とみなすことはできない。歴史学は歴史的真実と事実だけにもとづかねばならず、「記憶の誤り」にもとづくべきではないからである。私の知るかぎりでは、クルムホフ裁判以後、ここで起きた事件を徹底的に調査しようとする試みはまったくなされていない。数十万の犠牲者を引き起こしたとされている絶滅収容所ならば、痕跡を残しているはずであるし、それを発見することはできるであろう。本小論の目的は、従来の歴史叙述には欠陥があることを指摘することであった。

イングリド・ヴェッカート、ミュンヘン、1999

 

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[1] Gerald Reitlinger, Die Endlösung. Hitlers Versuch der Ausrottung der Juden Europas 1939-1945, (The Final Solution. Hitler's Attempt of the Ausrottung of the Jews in Europe 1939-1945) Berlin: Colloquium 1961; Bernd Nellessen, Der Prozess von Jerusalem. Ein Dokument (The Trial of Jerusalem. A Document), Düsseldorf/Wien: Econ 1964.

[2] Lucy S. Dawidowicz, Der Krieg gegen die Juden 1933-1945 (The War against the Jews), Munich: Kindler 1979.

[3] Gitta Sereny, Am Abgrund: Gespräche mit dem Henker. Franz Stangl und die Morde von Treblinka. (Engl. Original title: Into That Darkness: From Mercy Killing to Mass Murder, London 1974.) Translated from English by Helmut Röhrling, 3rd revised edition, Munich: Piper 1997.

[4] Adalbert Rückerl (ed.), Nationalsozialistische Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse. Belzec, Sobibor, Treblinka, Chelmno (National Socialist Extermination Camps Reflected in Criminal Trials. Belzec, Sobibor, Treblinka, Chelmno). Munich: Deutscher Taschenbuch Verlag 1977.

[5] Bernd Nellessen, Der Prozeß von Jerusalem. Ein Dokument (The Trial of Jerusalem. A Document), Düsseldorf/Wien: Econ 1964.

[6] Walter Laqueur, Was niemand wissen wollte. Die Unterdrückung der Nachrichten über Hitlers 'Endlösung' (What Nobody Wanted to Know. The Suppression of the News of Hitler's 'Final Solution'), Frankfurt/M.: Ullstein 1981.

[7] Raul Hilberg, Die Vernichtung der europäischen Juden. Die Gesamtgeschichte des Holocaust (The Destruction of the European Jews. The History of the Holocaust), Berlin: Olle & Wolter 1982.

[8] Der Prozess gegen die Hauptkriegsverbrecher vor dem Internationalen Militärgerichtshof (IMT) (The Trial of the Principal War Criminals before the International Military Tribunal), Nürnberg, 14. November 1945 - 1. Oktober 1946, Nürnberg 1947

[9] Ernst Klee, "Euthanasie" im NS-Staat. Die "Vernichtung lebensunwerten Lebens" ("Euthanasia" in the NS-State. The "Destruction of Unworthy Life"), Frankfurt/M.: S. Fischer, 1983, p. 371, talks of 40 km; Laqueur, p. 159, estimates the distance to 60 km; Rückerl, Vernichtungslager, states first 55 km (p. 259), but then quotes from court files which mention 60 km (p. 334).

[10] Gitta Sereny, Into that Darkness. An Examination of Conscience, New York: Vintage Books 1983, p. 139, 373; Heiner Lichtenstein, Mit der Reichsbahn in den Tod. Massentransporte in den Holocaust 1941 bis 1945 (With the Railroad into the Death. Mass transportations in the Holocaust, 1941 to 1945), Köln: Bund-Verlag 1985, p. 88, 91, 145, 158. Sereny as well as Lichtenstein list in their indices the towns Chelmno and Cholm as identical.

[11] Heinz Höhne, Der Orden unter dem Totenkopf. Die Geschichte der SS (The Order under the Scull. The History of the SS), Munich: Bertelsmann 1976.

[12] Léon Poliakov, Harvest of Hate. The Nazi Program for the Destruction of the Jews of Europe, New York: Holocaust Library 1979.

[13] Editor's note: On the deportations of Jews from Lodz, see also C. Mattogno, Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung 7(1) (2003), pp. 30-36. This paper will soon be published in TR.

[14] Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, New York: Harper & Row 198

[15] Martin Gilbert, Endlösung. Die Vertreibung und Vernichtung der Juden. Ein Atlas (Final Solution. The Expulsion and Destruction of the Jews. An Atlas), Reinbek: Rowohlt 1982.

[16] Gideon Hausner, Justice in Jerusalem, New York: Holocaust Library 1968.

[17] Gideon Hausner, Die Vernichtung der Juden. Das größte Verbrechen der Geschichte (The Destruction of the Jews. The biggest Crime in History), Munich: Kindler 1979 (includes chapters 2, 4-12 of Justice in Jerusalem).

[18] Jochen von Lang, Das Eichmann-Protokoll. Tonbandaufzeichnungen der israelischen Verhöre, (The Eichmann Protocol. Tape recordings of the Israeli Interrogations) Berlin: Severin and Siedler, 1982.

[19] Cf. Ingrid Weckert, "The Gas Vans: A Critical Assessment of the Evidence" in: Germar Rudolf (ed.), Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and 'Memory' , 2nd ed., Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, pp. 215-241.

[20] Krausnick, Helmut/Hans-Heinrich Wilhelm: Die Truppe des Weltanschauungskrieges. Die Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des SD 1938-1942, Stuttgart: Deutsche Verlags-Anstalt 1981.

[21] Martin Broszat (ed.) Rudolf Höß, Kommandant in Auschwitz. Autobiographische Aufzeichnungen, Munich: Deutscher Taschenbuch Verlag 1963.

[22] Sign.: Eich 936-939, Copy in the Münchner Institut für Zeitgeschichte.

[23] In the English version of her book, the text quoted by Mrs. Dawidowicz is: "the poor workers, the scum of the underworld" (Lucy S. Dawidowicz, The War Against the Jews 1933-1945, New York: Bantam Books 1975, p. 394).

[24] The following quotes from Piller's explanation are translations of the original text as printed in Massentötungen.

[25] First Kulmhof trial from Nov. 26, 1962 - March 30, 1963, LG Bonn, against 12 defendants, former members of the SK Chelmno; six received prison terms between three and thirteen years, six were acquitted. After appeal, a new trial, from July 5, 1965 - July 23, 1965, LG Bonn, against 11 defendants was held; eight prison terms between 13 months and 13 years, three acquittals. Separate trials against Günter Fuchs and Dr. Bradfisch in Hannover, sentencing on Nov. 18, 1963; sentence against Fuchs: lifelong, against Dr. Bradfisch: 13 years imprisonment.

[26] Published in: Justiz und NS-Verbrechen: Sammlung deutscher Strafurteile wegen nationalsozialistischer Tötungsverbrechen 1945-1966, Amsterdam: University Press 1968, vol. XXI: Massenvernichtungsverbrechen in Lagern. KZ Kulmhof (Chelmno) (Polen).

[27] Gilbert, Endlösung, p. 41. (Final Solution)

[28] N. Blumental (ed.), Dokumenty i Materialy, vol. I: Obozy, Lodz 1946.

[29] Source: "Aus der Sammlung von Frau Novitch". (From the Collection of Mrs. Novitch).

[30] Emanuel Ringelblum, Ghetto Warschau. Tagebücher aus dem Chaos, Ghetto Warsaw. Diaries from the Chaos), Stuttgart: Seewald 1967.

[31] Polish abbreviation ZTOS, Dawidowicz, Krieg, p. 234.

[32] Jacques Delarue, Geschichte der Gestapo (History of the Gestapo), Königstein/Ts.: Athenäum 1979.

[33] Jüdischen Historischen Institut Warschau (ed.), Faschismus - Getto - Massenmord. Dokumentation über Ausrottung und Widerstand der Juden in Polen während des zweiten Weltkrieges (Fascism - Ghetto - Mass Murder. Documentation about the Extermination of the Jews in Poland during the Second World War), Frankfurt/M.: Röderberg-Verlag 1962.

[34] Hitler's Ten-Year War on the Jews, New York 1943, p. 30.

[35] They were Mordechai Zurawski, Michael Podchlebnik, and Simon Srebnik.


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

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