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試訳:「ロイヒター報告」(ルドルフによる注釈付き

F. ロイヒター、G. ルドルフ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:200774

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Fred A. Leuchter, Jr., Robert Faurisson, Germar Rudolf, The Leuchter Reports. Critical Edition, 2nd, corrected edition Chicago (Illinois): Theses & Dissertations Press, Imprint of Castle Hill Publishers, October 2005を「ロイヒター報告(ルドルフによる注釈つき)と題して試訳したものである(文中のマークは当研究会による)。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online http://vho.org/dl/ENG/tlr.pdf

[歴史的修正主義研究会による解題]

 1988年に発表された「ロイヒター報告」は、「殺人ガス室」および「大量ガス処刑」に関するはじめての化学的・技術的・法医学的調査報告であり、この先駆的研究が、ホロコースト正史に与えた衝撃は大きい。ただし、今日の研究水準からみると、間違いや不正確な点も散見されるので、ルドルフによる批判的なコメントや注釈を参照しながら、読み進めるのが適切であろう。この批判的なコメントと注釈は、ホロコースト正史派による思いつきのような批判、素人談義のような批判とは異なり、修正主義者によるもっとも徹底的な「ロイヒター報告」批判ともなっている。

 

 

<目次>

「ロイヒター報告」によせて(G. ルドルフ)

「ロイヒター報告」批判の略史(G. ルドルフ

「ロイヒター報告」本文(ルドルフによる注釈付き)

 

批判的コメント(G. ルドルフ)

 

「ロイヒター報告」によせて

G. ルドルフ

 

 1988年にはじめて出版された「ロイヒター報告」[1]は先駆者の仕事である。これは、第三帝国時代に、殺人ガス室の中で人々が大量に殺されたという主張を法医学的に検証したはじめての研究であった。「ロイヒター報告」には、そのテーマであれば当然持たなくてはならない科学的な深さが欠けている点があるかもしれないが、それは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に関する専門家報告を作成する期間がわずか2週間しかなかったため、および、彼が当該のテーマについて十分な歴史学的知識をもっていなかったためであった。このために、「ロイヒター報告」は各方面からの批判にさらされることが予想された。

 本小論の筆者[ルドルフ]は、1989年、「ロイヒター報告」をたんに批判するのではなく、それを上回る仕事を行なうことを決意した。非常に複雑で、先入観と感情が混入しているこのテーマについて、難癖をつけるのは簡単だが、それを上回る仕事を行なうのは難しいからである。「ルドルフ報告」と呼ばれる私の専門家報告は、1993年にドイツで出版され[2]、その英語版――改善された「ロイヒター報告」が出版されたのはその10年後であった[3]。「ロイヒター報告」の成功に比べると、私の専門家報告は、かぎられた世界の中の秘密資料のような類にとどまってしまった。私の報告が遅れて登場したためであり、さらに、物理学的・化学的・毒物学的・工学的諸問題、ならびに歴史学的文書資料をあつかった大部な学術的研究であったので、人々の関心を引きつけるような書籍ではなかったからであった。すなわち、読み通して、それを理解するには難しすぎたのであった。

 私は、「ロイヒター報告」がよく知られているという事実を考慮して、その再版を決意した。しかし、1988年以降、アウシュヴィッツとマイダネクについての歴史研究は――とくに、ソ連の崩壊以降、東ヨーロッパの多くの文書館にアクセス可能となったために――大きな前進を遂げているので、たんに「ロイヒター報告」を再版するだけでは無責任であるので、それに注釈をつけたバージョンを出版することにした。「ロイヒター報告」は歴史的な文書ともなっているので、そのオリジナルテキストとはそのまま残してある。それに加えて、私による脚注が数多く付けられている。それらの脚注は、ロイヒターの主張を確証する典拠資料や説明を指し示したり、必要であれば、彼の主張を修正したり、それにコメントしたりするものである。本報告の中に挿入されている図版は、ロイヒターがどのような場所、そのような装置、どのような物品を描こうとしているのか、ビジュアルに伝えるために、この版に付け加えられたものである。第一「ロイヒター報告」の末尾には、問題をもっと詳細に検証するための章がいくつか付け加えられている。

 あまり知られていないことであるが、ロイヒターは有名な第一報告の著者であるだけではなく、その後、これと関連したテーマに関して出版された3つの研究も行なっている。「第二ロイヒター報告」、「第三ロイヒター報告」、「第四ロイヒター報告」と呼ばれている[4]。それらはひとまとめの関連した研究であるので、本書に収録することにした。しかし、この3つの報告にはコメントは付されていない。関連するコメントがすでに第一報告に付されているからである。プレサックのアウシュヴィッツ研究に対するロイヒターの批判――「第四ロイヒター報告」――に関していえば、プレサックの研究に関するもっと完璧な批判に直接あたることをおすすめする[5]

 「ロイヒター報告」批判的検証版を出版するアイディアのきっかけとなったのは、報告の作成を要請した人物、すなわちエルンスト・ツンデルの悲運であった。フォーリソンの序文の中にツンデル裁判と彼の試練のことは紹介されているので、ここでは、この4つのロイヒター報告こそが、ツンデルが残したものの核心であったとだけいっておく。ドイツでは、ホロコースト正史の信憑性に疑問を呈することは、懲役5年までの思想犯罪と見なされているために、彼は、この報告の出版の咎で、――本小論の執筆の時点では――、ドイツの獄中に繋がれているからである。

 この批判的検証版は、ツンデルに捧げられているだけではない。歴史学上の異論のために、アメリカ人としては並外れた苦難を経験した本報告の著者ロイヒターにも捧げられている。ツンデルがロイヒターの第一報告を出版すると、ユダヤ系団体は悪辣な中傷キャンペーンをはじめ、そのために、ロイヒターは、評判がおとしめられただけではなく、生活の手段も奪われた。ロイヒターが、州当局とのあいだで結んでいた処刑施設の製造・設置・維持契約も破棄された。彼は、金銭的な事情からマサチューセッツ州の自宅を出ることを余儀なくされ、別の仕事を見つけなくてはならなくなった[6]

 

 

 しかし、ロイヒターとは一体どのような人物なのか?マーク・ウェーバーが、メインストリームの中のロイヒター紹介文をまとめているので[7]、それをここに掲載しておく。

The Atlantic Monthly (Feb. 1990)の特集記事はロイヒターをこう描いている。

 

「処刑装置に関する国内唯一の商業的提供者。…彼は訓練と経験をつんでいるので、あらゆるタイプの処刑装置に精通している。彼は、致死注射装置、ガス室、絞首台、電気椅子を製作している…」

 

 同じく、New York Times (October 13, 1990)のロイヒターの写真つき長文記事は、ロイヒターのことをこう呼んでいる。

 

「死刑についての国内最高のアドバイザー」

 

 Stephen Trombleyは、アメリカの死刑産業に関する本の中でロイヒターについてこう明言している[8]

 

「処刑装置に関する国内第一級の提供者。彼の製品には、電気椅子、ガス室、絞首台、致死注射装置がある。彼は、設計、製造、設置、スタッフの訓練、維持を提供している。」

 

 だから、ロイヒターは、合衆国の処刑技術に関する、唯一のとはいえないまでも、第一級の専門家なのである。このような人物以外に、一体誰が、第三帝国の「処刑技術」の技術的可能性について判断できるのであろうか? たとえ、彼以外にも別の人物がいたとしても、少なくとも、彼の意見に耳を傾けるべきなのではないだろうか?

 ロイヒターによると、ガス室の中で囚人を殺す作業は、とりわけ、その死体が致死性ガスに汚染されているがゆえに、処刑を実行する人々にとっても非常に危険な作業なのである。ロイヒターは処刑後の作業についてこう説明している[9]

 

「中に入る。まず、囚人の死体を、塩素漂白剤かアンモニアの入った水で完全に洗浄しなくてはならない。毒ガスは死体からにじみ出てくる。そのまま葬儀屋に引き渡したとすれば、その葬儀屋を殺してしまうことになる。だから、中に入ったならば、完全に死体を洗浄しなくてはならない」

 

 ジェファーソン・シティのミズーリ州刑務所には処刑ガス室があるが、その看守Bill Armontroutは、その危険性をこう明言している[10]

 

「シアン化水素ガスの特徴の一つは、皮膚の毛穴に入ってしまうことである。だから、死体を水洗いしなくてはならない。何か作業をする前に、ゴム手袋をはめて、死体を完全に洗浄しなくてはならない。」

 

 ロイヒターはガス室の使用を中止すべきであると考えているが、それは、それが残酷な処刑方法だからではなく、ガス処刑に危険が伴っていると判断しているためである[11]

 

「ガス室は危険です。それを使用する人々にとっても危険であり、目撃者にも危険です。ガス室をチェーンソーで半分にして、すべてを除去すべきです。」

 

 ロイヒターは、ホロコースト・ロビーによって仕事を奪われるまでは、「死刑であって拷問ではない」とのモットーにもとづいて経験を蓄積し、自分の仕事に誇りを抱いていた。

 本書が、ツンデルとロイヒターのための知的メモリアルとなることを望んでいる。

ゲルマール・ルドルフ、シカゴにて。200541

 

 

「ロイヒター報告」批判の略史

G. ルドルフ

 

 「ロイヒター報告」は「大量ガス処刑」にまつわる技術的な論点を明らかにしたが、この「ロイヒター報告」に関する事実にもとづく議論は、フランスにおいて、薬剤師プレサックが雑誌Jour Juifに掲載した反論からはじまった[12]。しかし、プレサック論文は専門的な反論と呼べるようなものではなかった。彼は、自分の技術的・化学的主張を証拠や厳密な科学的議論を使って立証していなかったからである。彼は、「ロイヒター報告」のいくつかの欠陥を指摘していたが、彼自身もその能力の欠如のために、化学的・技術的諸問題においていくつかの過ちをおかしている[13]

 次に登場したのが、故ジョルジュ・ヴェレール博士であった。彼は、フランスの国立科学研究センター(Centre National de la Recherche Scientifique, CNRS)の生理学・生化学教授であると同時に、パリの現代ユダヤ人文書センター(Centre de Documentation Juive Contemporaine, CDJC)歴史委員会議長でもあった。彼は、「ロイヒター報告」のごく限られた側面だけに狭い焦点をあてた論文を書いている[14]。物理的現実を無視した希望的観測、自説に反してしまうような「殺人ガス処刑」に関する目撃証言の無視というのが彼の論文の特徴である[15]

 ドイツでの最初の反応は、ドイツの公的な現代史研究所からであった[16]。これはプレサックの研究を土台としていたが、自説を証拠によって立証しようとしておらず、さらに、その著者である歴史家Hellmuth Auerbachが技術的な知識をまったくもっていないために、ほとんど役に立たない[17]

 1991年、第三帝国に関する論文集に、「ロイヒター報告」についての論文が掲載された。その著者は90歳の老人で、すでに定年退職したソーシャル・ワーカーのWerner Wegnerであった。しかし、彼は化学の分野でも工学の分野でもその資格を持っておらず、自分の技術的主張を立証してもいなかった[18]Wegnerはこの問題について資格のある人物の助言を求める代わりに、自分勝手な結論を引き出し、いっそう大きな混乱を招くことになった[19]。この論文集の編集にあたったドイツ人歴史家Rainer Zitelmann博士は、なぜこのような馬鹿げた論文を入念な研究書の中に入れてしまったのかという私の質問に対して、他の論文が「修正主義的」論調であるために本書に対する反対が予想され、そのような事態を避けるためにこの論文を入れなくてはならなかったと答えている[20]

 1991年末、オーストリアの化学者Josef Bailer博士が、オーストリアで出版された小冊子の中で「ロイヒター報告」を批判した[21]。この論文の特徴は、著者Bailerがアウシュヴィッツでのガス処刑手順に関する目撃証言をほとんど無視してしまっていること、および、ガス処刑に関連する化学的手順についてまったく理解していないことである。Bailerは、自分の研究に向けられた批判にもかかわらず[22]、その後の著作の中でも、その批判に答えることもせず、根拠のない「ロイヒター報告」批判を繰り返している[23]

 最後に、アウシュヴィッツ国立博物館自身が、専門家報告の作成を命じている。ヤン・ゼーン博士名称クラクフ法医学研究所毒物学部がこの報告を準備した。これは、故マルキエヴィチ技術検査学教授のもとで行なわれた、煉瓦・コンクリート・サンプル分析に限られた報告(1990924日)であった[24]。この報告は、殺人ガス室から採取されたロイヒターのサンプルのシアン化合物の痕跡がごく微量にすぎなかったのは、シアン化合物が40年以上も風雨――シアン化合物はこれに抵抗力がない――にさらされてきたためであると結論付けていた。その後、ヤン・ゼーン研究所の三名の研究者は補足的な分析結果を公表している[25]。だが、二つの研究報告とも、きわめて不正確な分析方法にもとづいているために、その分析結果は欠陥の多いものであった[26]。著者たちと手紙で意見を交換したが、それによっても、不正確な方法を意図的に使った理由が明らかにはなっていない[27]

 少なくとも部分的にではあるが学術論文に値する最初の「ロイヒター報告」批判は、1998年にインターネット上に登場したアメリカ人化学博士Richard J. Greenの論文である。Greenは、「ルドルフ報告」も批判しているが、残念なことに、ひどい政治的な中傷に満ちている[28]。相互の批判が続いたが[29]Greenは、重要な論点についての議論を避けている[30]

 1999年、オランダ人文化史家ペルト博士――カナダにある大学の建築学史教授――が、イギリス人歴史家アービングとアメリカ人著述家リップシュタットの名誉毀損裁判の弁護側専門家として、アウシュヴィッツについての専門家報告を作成した[31]。この報告は1989年に出版されたプレサックの最初の著作[32]以前の水準に後退している。1989年以降、修正主義者が提起したすべての議論を無視してしまっているからである[33]2002年、ペルト教授はこの裁判に提出された証拠の要約と彼による解釈を出版した[34]。これは、修正主義者のさまざまな所説をあつかった英語によるはじめての研究書であった――その多くをプレサックの研究書に依拠している――[35]。しかし、残念なことに、化学的・毒物学的・工学的・建築学的諸問題をあつかうにあたって、文化史家のペルトには、その能力も経験もない[36]

 (第一)「ロイヒター報告」に対する批判には上記のような欠陥があることを考慮すると、本書は、「ロイヒター報告」に対する初めての徹底的な批判であろう。同時に、公平さをきすために言っておかなくてはならない。脚注にある私の批判的コメント、ならびに「ロイヒター報告」の後に補足された章を読むにあたって、ロイヒターには報告を作成するためにわずか2週間しかなかったこと、さらに、1988年という時点の限られた知識にもとづかなくてはならなかったこと、その一方、私ルドルフには、問題を調査する10年以上の期間が与えられていたこと、さらに、この分野で長年、数十年も研究している多くの研究者の助力があったことを念頭に置かなくてはならないのである。

ゲルマール・ルドルフ、シカゴにて。200541

 

 

 

「ロイヒター報告」本文

――ポーランドのアウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの「処刑ガス室」に関する技術報告――

[赤字部分はルドルフによる注釈]

 

00:はじめに

 今年(1988)2月、私はロベール・フォーリソン博士を介してエルンスト・ツンデル氏と接触し、ナチスがポーランドで稼働させていた現存の焼却棟と「処刑ガス室」を法医学的に調査・検証し、その可能性と効能についての技術的意見を提出する仕事を引き受けてくれないかと求められた。

 この計画を検討していたツンデル氏、弁護士ダグラス・H・クリスティおよびそのスタッフとの会合で、わたしの分析結果は、トロントの地方裁判所で開かれていたツンデル裁判との関連で利用されることが明かされた。

 この点での了解がなされると、この調査はアウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネク(ルブリン)とその焼却棟および「処刑ガス室」を対象とすることが決定された。私はこの仕事を引き受け、1988225日、調査チームを率いてポーランドに向かった。調査チームは、私、妻キャロライン・ロイヒター、製図職人Howard Miller氏、撮影技師Jurgen Neumann氏、ポーランド語通訳Tijadar Rudolph氏であった。われわれは要請されていたアウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの施設すべてを調査したのち、198833日に帰国した。本報告と私の分析結果は、ポーランドで行なわれたこの調査の産物である。

 

01:目的

 本報告とそれがもとづく調査の目的は、ポーランドの3つの場所、すなわち、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの「処刑ガス室」と焼却棟施設がホロコースト文献に描かれているようなやり方で稼働しえたかどうかを決定することである。

 この目的には、物理的施設を調査・検証すること、これらの施設の設計を調査・検証すること、使われたガスの量を決定するためにこの施設で使われた手順の記述を調査・検証すること、使用時間(すなわち処刑と換気時間)を調査・検証すること、収容人員とそれに関連する部屋の物理的サイズを調査・検証すること、確証されていない稼働報告の信憑性および信用性を決定するために死体処理・焼却手順と時間を調査・検証することが入っている。

 この目的には、ガス処刑以外の手段で死んだもしくは殺された人数を決定すること、もしくは実際にホロコーストが起こったかどうかを裁定することは入っていない。さらに、本報告の筆者はホロコーストを歴史学の枠内で定義し直そうと考えていない。ただ、実際の現場で手に入れた科学的証拠と情報を提供し、調査現場の「処刑ガス室」と焼却棟施設の目的と使用に関するすべての科学的、技術的、量的データにもとづいた見解を提起しようと考えているにすぎない。

 

02:背景

 調査責任者かつ処刑装置の設計・製作に関する本報告の筆者は、合衆国においてシアン化水素ガスによる囚人の処刑のための装置の設計・製作にとくにかかわってきた[第三ロイヒター報告参照]

 調査者は、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの施設を検証し、測定し、法医学的サンプルを採取し、デゲシュ社製害虫駆除室の設計とマニュアル、チクロンBの取り扱いマニュアル、処刑手順の資料を考察した。焼却棟Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳのオリジナル図面の複製も含む、考察の対象となった資料の大半は、あらかじめ購入され、ポーランドの現場で検証された。

 

03:考察の範囲

 本報告の考察の範囲には、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクで行なわれた物理的検証、そこで入手した量的データの検証、3つの博物館の職員が提供した文献の検証、博物館で入手した焼却棟Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴの青写真のコピーの検証、デゲシュ社製害虫駆除室と施設(チクロンBガスを使った装置とマニュアルも含む)に関する資料の検証、問題の施設の稼働手順のついての記述の検証、調査対象となった焼却棟から採取されたサンプルの法医学的検証が入っている。

 さらに、この分野における調査者自身の知識と活動経験に由来する合衆国のガス室の設計と操作手順に関するデータ、および、合衆国の焼却棟と稼働方法の検証も、本報告の作成のために利用された。上記のデータすべてを使いつつ、調査者は、本研究の焦点を、以下の二点を裁定することに限定した。

 

(a)    アウシュヴィッツⅠとビルケナウにおいてはチクロンBガスを、マイダネクにおいては一酸化炭素・チクロンBガスを使って大量殺戮を行なったとされている「処刑ガス室」の能力

(b)    いわれているところの時間で、いわれているところの数の人間を焼却したとされている焼却棟の能力

 

3:循環装置を備えたデゲシュ社製害虫駆除室Ludwig Gasner, Verkehrshygiene und Schadlingsbekampfung,Gesundheits-Ingenieur, 66(15) (1943), pp. 174ff.; cf. F.P. Berg, Typhus and the Jews,Journal of Historical Review, 8(4) (1988), pp. 433-481 (www.vho.org/GB/Journals/JHR/8/4/Berg433-481.html).。このデザインは1930年代末と1940年代初頭に開発され、戦時中のドイツの標準となった。しかし、すべての強制収容所に設置されていたわけではない。強制収容所には往々にして、間に合わせの害虫駆除室が設置されていた。

 

04:梗概と分析結果

 筆者は、ガス室の稼働に関する設計の基準についての専門的な知識、焼却技術の調査、現代の焼却棟の調査にもとづいて、入手しうる文献を研究し、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの現存施設を検証・評価したのちに、処刑ガス室といわれている施設がそのようなものとして使われたという証拠をまったく発見することができなかった。さらに、これらの施設はその設計と建築様式ゆえに、処刑ガス室として使うことはできなかったにちがいないことを発見した。

 さらに、焼却棟施設を検証してみると、いわれているところの時間で、いわれているところの数の人間を焼却したという話とはまったく矛盾する証拠が登場した。それゆえ、検証の対象となった施設のどれ一つとして人間の処刑のために使われたことはなかった、焼却棟はいわれているところの作業効率と負荷を担うことはできなかったにちがいないというのが筆者の最良の技術的見解である。

 

05:方法

 本報告としてまとめられた研究と法医学的分析の手順は以下のとおりである。

 

1.      入手しうる資料の背景となる全体的研究。

2.      当該施設の現場検証と法医学的検証。そこには、物理的データ(寸法、建物情報)を採取すること、物理的サンプル資料(煉瓦とモルタル)――合衆国に持ち帰り、化学分析に回される――を入念に採取することが入る。

3.      文書に記録されている兵站学的データ、見ることができる(現場検証できる)兵站学的データの考察。

4.      入手したデータの編集。

5.      入手した情報を分析し、この情報を、実際のガス室と焼却棟の設計と建築様式、稼働のために必要な、既知の立証されている設計、手順・兵站学的情報と条件とを比較すること。

6.      現場で入手した資料の化学的分析の考察。

7.      入手した証拠にもとづく結論。

 

06:燻蒸殺虫剤としてのHCNとチクロンBの使用

 シアン化水素ガス(HCNもしくは青酸)は、第一次世界大戦以前から燻蒸殺虫剤として使われてきた。それは、スチームや温風と併用され、第二次世界大戦中は、合衆国とその同盟国によってDDTと併用された。

 HCNは一般的に、シアン化ナトリウムと希硫酸との化学反応によって作られる。この化学反応の結果、HCNが空気中に放出され、青酸(シアン化水素酸)が残留する。この反応は通常は、陶器製容器の中で行なわれる。

 この手順は、船舶、建物、特別に設計された部屋・建物の中での害虫駆除に利用されてきた。使用者(技師)の安全を保証するために、特別な設計と注意深い操作を守らなくてはならない。シアン化水素はあらゆる燻蒸殺虫化学製品の中でもっとも強力で、危険である。世界各地の軍事・衛生組織はすべて、この目的のために特別に建設・改築された建物を使ってきた。世界各地で、HCNは防疫、とくにペストとチフスの防疫、すなわち、ネズミ、ノミ、シラミの駆除のために使われてきた。

 ヨーロッパと合衆国では、第一次世界大戦以来、特別な部屋が使われてきた。ドイツ軍は戦前と戦時中にヨーロッパでこの部屋を使い、ニューヨーク港エリス島の合衆国移民局は、もっと早くから、この部屋を使っていた。この燻蒸害虫駆除室の多くは、ドイツのフランクフルト・アム・マインにあるドイツの会社デゲシュによって製造された。戦時中、デゲシュ社はチクロンBの配布も統括した。デゲシュ社は今でもHCNを製造している[デゲシュ社はもはや業務を行なっていない。ドイツのDetia Freyberg, Ltd が事業を引き継いでいる。1978/79年にテレビ・シリーズ「ホロコースト」が放映されてから、チクロンBCyanosilに改称された

 チクロンBは、青酸を含んだ特別な商業製品である。「チクロンB」という名は、商標である。HCNは工場で生産され、木材パルプや珪素土(石灰土)でできた多孔性の媒体に吸収された形で提供される[多孔性の媒体の三番目のタイプは、少量のでんぷんと混ぜ合わされた石膏である(「Ercco」と呼ばれていた)。1930年代末に開発され、次第に、珪藻土を使ったタイプと代わっていった。See R. Irmscher, Nochmals: Die Einsatzfahigkeit der Blausaure bei tiefen Temperaturen,Zeitschrift fur hygienische Zoologie und Schadlingsbekampfung, 34 (1942), pp. 35f.; Wolfgang Lambrecht, Zyklon B eine Erganzung,Vierteljahreshefte fur freie Geschichtsforschung 1(1) (1997), pp. 2-5; see also Jurgen Kalthoff, Martin Werber, Die Handler des Zyklon B, VSA-Verlag, Hamburg 1998.。円盤状、断片状、丸薬状で提供されていた。この製品は、特別な缶オープナーを必要とする気密缶に収められていた。この形でのHCN-チクロンBガスははるかに安全で、取り扱いが容易であった。チクロンBからはHCNが放出された。円盤状、断片状、丸薬状のものを、燻蒸処理の対象となる部屋の床に散布しなくてはならなかった。そして、室内は、華氏78.3度(セ氏25.7度)以上に暖められ、空気は循環されたHCN-5C°/20°Fの低い温度でも着実に揮発するために、チクロンBはもっと低い温度でも用いることができる。see R. Irmscher, ibid.。木材や製品を燻蒸するために建物、船舶、テントの中で使う場合には、その区画は、HCNの沸点である25.7℃以上に暖められなくてはならない。そうしないと、燻蒸時間がはるかに長くなってしまう、燻蒸には最低24時間から48時間かかる[この数値は、特別な暖房・換気装置のない部屋の中で燻蒸する場合に、デゲシュ社が推奨している数字である。最低の換気時間は10時間、ひいては20時間に設定されている。see DEGESCH, Zyklon for Pest Control, undated, 28pp, see appendix to this report (starting at p. 75); see also the information sheet issued by the Public Health Agency of Bohemia-Moravia during the war (Gesundheitsanstalt des Protektorats Bohmen und Mahren), Richtlinien fur die Anwendung von Blausaure (Zyklon) zur Ungeziefervertilgung (Entwesung), as presented during the International Military Tribunal in Nuremberg, document NI-9912 (see. R. Faurisson, in G. Rudolf (ed.), Auschwitz: Plain Facts,Theses & Dissertations Press, Chicago, IL 2005, pp. 103-111)

 燻蒸後、区画の換気には、場所(と容積)にもよるが、最低10時間かけなくてはならない。建物に、窓や換気扇のない場合にはもっと長くかかる[この手順は、デゲシュ社製の「空気循環装置」のような特別設計の部屋を使えばはるかに速やかに進めることができる。see Gerhard Peters, E. Wustinger, Entlausung mit Zyklon-Blausaure in Kreislauf-Begasungskammern. Sach-Entlausung in Blausaure-Kammern,Zeitschrift fur hygienische Zoologie und Schadlingsbekampfung, 32 (10/11) (1940), pp. 191-196; cf. also F.P. Berg,The German Delousing Chambers,Journal of Historical Review, 7(1) (1986), pp. 73-94 (www.vho.org/GB/Journals/JHR/7/1/Berg73-94.html)。燻蒸区画は、そこに入るまえに、ガスが残っているかどうか、化学的に検知されなくてはならないSee Carlo Mattogno, The Gas Testers of Auschwitz,The Revisionist, 2(2) (2004), pp. 140-154 (www.vho.org/tr/2004/2/Mattogno140-154.html)。ガスマスクを使用するが、それだけでは安全ではなく、10分以上使うべきではない[この数値は、フィルターのタイプ、HCNの濃度、肺活量などのさまざまな要因に依存している。1Vol.-% HCN のなかで30分も有効である特別なHCNフィルターが存在した。Cf. R. Queisner, Erfahrungen mit Filtereinsatzen und Gasmasken fur hochgiftige Gase zur Schadlingsbekampfung,Zeitschrift fur hygienische Zoologie und Schadlingsbekampfung, 1943, pp. 190-194。皮膚への毒の浸透を防ぐには、完全な化学スーツを着用しなくてはならない[皮膚への毒の浸透は濃度0.6 Vol.-%以上で生じる。濃度1Vol.-%は数分以内で致命的となりうる。(汗によって)皮膚が湿ってしまうことになる重労働はきわめて危険とみなされている。see F. Flury, F. Zernik, Schadliche Gase, Dampfe, Nebel, Rauch- und Staubarten, Berlin 1931, p. 405; see also M. Daunderer, Klinische Toxikologie, 30th suppl. Delivery 10/87, ecomed, Landsberg 1987, pp. 4ff。気温が高いほど、その場所が湿っているほど、取り扱いは速やか、かつ安全となる。

 ガスの特性は表1にある。

 

1HCNの特性See W. Braker, A.L. Mossman, Matheson Gas Data Book, Matheson Gas Products, East Rutherford 1971, p. 301; R.C. Weast (ed.), Handbook of Chemistry and Physics, 66th Ed., CRC Press, Boca Raton, Florida 1986, E 40.

名前: HCN, hydrocyanic acid(シアン化水素酸), prussic acid(青酸)

沸点: 25.7°C/78.3°F at 760 mm Hg

比重: 0.69 at 18°C/64°F

Vapor density: 0.947 (air=1)

融解点:-31.2°C/8.2°F

蒸気圧:750 mm Hg at 25°C/77°F 1200 mm Hg at 38°C/100°F

溶解度:100%

外見:透明

:わずかに青

臭い:苦いアーモンド、非常にマイルド、非刺激臭(臭いは、毒を検知する安全は方法ではない)

危険性:

1. 熱、アルカリ性資料、水に不安定

2. 20%の硫酸と混ぜると爆発する

3. 重合(分解)は熱、アルカリ性資料、水によって激しく生じる。反応が一度始まってしまうと、自触媒作用的に進み、コントロールすることができない。爆発する。

4. 引火点:-18°C/0°F

5. 自動発火点: 538°C/1000°F

6. 空気中での可燃限界: lower 6 vol.-%, upper 41 vol.-%

 

07:燻蒸施設の設計基準

 建物であるにせよ室内の部屋であるにせよ、燻蒸施設は同一の基本的必要条件にしたがわなくてはならない。気密可能なこと、暖房可能なこと、空気の循環・排出能力をともに備えていること、ガスの排出のための十分に高い煙突とガス(およびチクロンB)を均等に配分する手段を持っていることであるこれは非常に能力の高い設計で、今日の法律が要求している基準であるが、戦時中にドイツが建設した燻蒸施設がこの必要条件や、以下で述べるような必要条件をすべて満たしているわけではない

 まず、今日部屋が使われるとしたら、この部屋は溶接され、不活性(樹脂)ペンキかステンレススチールかプラスチック(PVC)でコーティングされた耐圧室でなくてはならない。ドアの隙間は抗HCN資材(ピッチ・アスベスト、ネオプレン、テフロン)によって埋められていなくてはならない。建物の場合には、レンガ造りか石造りで、その内と外は不活性(樹脂)ペンキ、ピッチ、タール、アスファルトでコーティングされなくてはならない。ドアと窓の隙間は、ゴムを引いた布、ピーチを塗った布で埋められ、ネオプレンかタールで密閉されなくてはならない。どちらの場合にも、区画は非常に乾燥していなくてはならない。「密閉」という用語は、まず、施設からの漏洩を機械的に防止すること、次に、施設の多孔性の表面をチクロンBガスの充満による浸透から防止するという2つの意味を持っている。

 第二に、部屋や建物はガス発生装置、もしくはチクロンBや発生装置(発生装置は、部屋や建物が密閉されていれば、水で温められる)に温風を吹きかけ、温風とガスとを循環させるチクロンB散布システムを備えていなくてはならない。燻蒸に必要な混合気は3200ppmもしくは0.32%のHCNである。室内に障害物が置かれていてはならない。強力で、豊かで、絶えざる対流を引き起こす能力をもっていなくてはならない。

 第三に、部屋や建物は毒を含んだ空気とガスの混合気を排出し、それを新鮮な空気と置き換える手段を備えていなくてはならない。一般的には、これは、1時間あたり合理的な空気交換を可能とするのに十分な大きさを持った吸・排気バルブもしくはよろい戸つきの窓を持った排気ファンや吸気ファンを使って行なわれる。通常は、1立方フィート/分(cfm)強ファンと吸・排気装置を使って、30分での完全な空気交換すべきであり、1時間、もしくは2時間に、少なくとも2回、必要時間、稼働させるべきである。施設が大きいほど、このやり方は(利用できるファンの大きさのために)有効ではなくなり、数時間以上の排気が必要となる場合もあるであろう。

 排気は、建物から安全な距離を離れた地点、すなわち、空気の流れがガスを分散させることができるような地点で行なわれなくてはならない。通常は、建物から40フィートほどの高さであるが、建物が風を防ぐような場所にある場合には、もっと高い地点とするべきである。焼却装置が使われていれば、煙突の高さは数フィートでもかまわない。しかし、一般的には、HCNを焼却するコストは、短時間で処理しなくてはならない容量ゆえに、非常に高い。

 施設内の壁と空気、排気の温度は、HCNが施設の壁、床、天井、ならびに排気システムに凝結してしまうことを防ぐために、青酸の沸点(25.7°C/78.3°F)よりも、少なくとも10度高く保たれねばならない。温度が華氏79度以下であり、凝結が起ってしまったならば[ガスの凝結は、温度が露点以下となると起る。HCNの露点は1 Vol.-%で、何と-93°C (-135°F)である。10 Vol.%であっても、-33°C (-27.4°F)という低温である。例外的に、セメントモルタルのようなきわめて多孔性の資材の場合には毛管現象による凝結が起るが、これも、水の毛管現象がない場合には、起こりえない。だから、ここでは、壁へのHCNの浸透あるいは湿気(水の毛管現象)への吸収(溶解)というのが適切な用語法である。壁の湿気の程度は気温が低いと非常に高くなるので、湿気に吸収されたHCNからの危険も大きくなる。See K. Wesche, Baustoffe fur tragende Bauteile, volume 1, Bauverlag, Wiesbaden 1977, p. 37塩素漂白剤かアンモニアで建物を洗浄しなくてはならない。前者の方がはるかに効果的である。これは、自動的か手動で壁に散布することで行なわれる。もし手動で行なうならば、保護服(普通はネオプレン製)を着用しなくてはならないし、技師は空気ボンベを使わなくてはならない。ガスマスクは安全ではなく、危険だからである[壁を洗浄するために使う化学資料(塩素、アンモニア)は、非常に刺激的で腐食性のガスを発し、HCN残余物よりも危険なために、そうなのである]。建物内部は、塩素漂白剤のガスが排気システムに残っている液体HCNを中性化させるまで、より長く換気しておかなくてはならない。建物内部は、水で洗浄し、次に使うまで、徹底的にモップがけし、乾燥しておかなくてはならないHCNは容易かつ大量に水に吸収されて(溶解して)しまうので、HCNガスにさらされた場所は可能な限り乾燥したままにしておくことがとくに推奨される]

 さらに、HCNがすべて除去されたか調べるために、建物内部の空気を検査しなくてはならない。その検査はガス検知器か銅アセテート/benzidene テストによって行なうことができる。前者では、10ppmまでの数値が電気的に表示される。後者では、benzidene溶剤と銅アセテート溶剤の混合液が試験紙の中に染み込まされ、その試験紙はHCNが存在するとさまざまな青に変色する[戦時中には後者の化学反応式だけが利用できた、See Carlo Mattogno, The Gas Testers of Auschwitz,The Revisionist, 2(2) (2004), pp. 140-154(www.vho.org/tr/2004/2/Mattogno140-154.html)

 

08:処刑ガス室の設計基準

 燻蒸施設の同じような必要条件の多くが処刑施設にも適用できる。しかし、一般的には、処刑施設の方が小さく、より効果的なものであろう。チクロンBは、概して、ガスを不活性媒体から取り出すのにかかる時間のために[必要時間についてはsee R. Irmscher, op. cit.、処刑ガス室で使うには薦められない。今日まで、塩化ナトリウムと18%の硫酸をその場で化学反応させてガスを発生させるのが唯一の効果的な方法であった。最近、ガス発生装置の設計が完成されたが、まもなく、それは、ミズーリ州ジェファーソン・シティのミズーリ州立刑務所にある2つのガス室で使われるであろう。筆者がこの処刑ガス室の設計コンサルタントである。

 この発生装置は、電気的に暖められた水ジャケットを使って、円筒形の容器の中のHCNをあらかじめ沸騰させている。使用されるときには、HCNはすでに気化しており、バルブを介して室内に放出される。窒素爆発システムが、使用後に管を掃除する。処刑時間の合計は4分以下である。部屋は、15分のあいだで2分ごとの割合で、すなわち、15分のあいだで7回ほどの完全な空気交換が行われるように換気される。

 部屋は溶接されたスチール製かプラスチック(PVC)製であろう。ドアと窓は標準的な海軍耐水様式でなくてはならない。ドアは、シングルハンドル圧力スチールでガス気密される。照明装置・電気装置はすべて爆発に耐えられるものである。室内には、ガス配分管、液体HCNボトルのついたガス発生装置、心電計、死刑囚用の2つの椅子、10ppmまでを電気式に表示するガス検知器が設置されている。

 室内には致死性のガスが充満しているために、気体の漏れが室内方向に向かうように、室内の気圧の方が室外の気圧よりも低い。室内を10ポンド毎平方インチ(psi)という部分的圧力に維持する[約70%の気圧](操作上は、8psi+HCN2psi20 Vol.-% of HCN (138 mbar))はずである空気吸引システムが室内の気圧をコントロールする。室内の方が低い気圧は、outward ambientを標準として使うことで維持されている。このシステムは電気的にコントロールされており、17.7 cfm排気量の真空ポンプで維持されている。さらに、室内の圧力が12psi、操作リミットを3psiを上回った場合に、緊急システムを作動させる圧力スイッチが付けられている。

 吸・排気システムは2分ごとに空気交換を行えるように設計されている。空気は部屋の吸気口の2000+cfmファンによって供給され、部屋の天辺から排出される。吸気バルブ、排気バルブはともに、真空圧による損失を防ぐために内側に閉じていく型であり、排気バルブがまず開くように電気的に時間調整されている。内部のガスは高さ40フィート直径13インチのPVC製のパイプを介して、風によって安全に分散される地点で排出される。吸気はあらかじめ暖めておかなくてはならないが、それは、HCNが凝結して排出を免れてしまうのを防ぐためである。

 安全のためにガス検知器が使われている。まず、安全となるまでドアを開くのを電気的に防ぐようにする室内において、ついで、証人や職員のいる区画のある室外において。ここでは、証人を保護するため、処刑を中断するため、部屋を換気するために警報を鳴らして、排気・吸気システムを作動させる。安全システムには、警告ベル、ブザー、ライトもある。

 さらに、特別呼吸装置(空気タンク)、特別HCN救急セット、HCN用の緊急治療装置がガス室区画で、人工呼吸器が、医療職員のための隣接区画で、それぞれ利用可能である。

 処刑ガス室を設計するにあたっては、数多くの複雑な問題を考慮しなくてはならない。どの区画におけるミスであっても、証人や技師たちを死亡させたり、負傷させたりする可能性がある、もしくは、そのようなことが起るかもしれないからである。

 

091920年以降の合衆国の処刑ガス室

 処刑目的のガス室がはじめて作られたのは、1920年、アリゾナにおいてである。それは、ガスケット処理されたドア、窓、ガス発生装置、耐爆発電気システム、吸・排気システム、吸気にアンモニアを付加する装置、ガス発生装置と換気装置を作動させる機械的手段を備えた気密室であった。吸気装置には機械的に操作するいくつかのバルブが付いていた。今日まで、ハードウエアだけはほとんど変わらず残っている。

 ガス発生装置は、機械的に作動する解除レバーの付いた、希硫酸(18%)溶液の入った陶器の容器からできていた。部屋は処刑後にアンモニアを使って、ごしごしと洗浄されなくてはならなかった。また、処刑された人も同様に洗浄された。25-13グラムほどのシアン化ナトリウム179 g HCN (6.6 mol)に等しいの丸薬が使われ、600立方フィートの部屋で3200ppmの濃度のガスを発生させた17㎥の空間で、10.5 g HCN/m3 = 0.87 Vol.-% = 8,700 ppmを発生させたに等しい。実験によれば、放出されたHCNのうちほぼ50%が、硫酸液の中に溶解したまま残ってしまう (see chapter 8.3.3.4. of my expert report, G. Rudolf, The Rudolf Report, Theses & Dissertations Press, Chicago 2003, p. 265)。だから、(使われた硫酸の量に依存して)もう少々低い数値となるかもしれないが、ロイヒターの推定値3200ppmという濃度は理にかなっている

 1920年以降、その他の州もHCNガス室を処刑手段として採用し、設計技術も変化した。Eaton Metal Productsが多くのガス室を設計・建設・改良した。その大半は二つの椅子を備えており、室内の気圧を室外の気圧よりも低く設定し、室内方向への空気の漏れだけを許すような空気圧調整システムをもっていた。すべてのシステムは、ガス発生装置という技術を採用していた。それが、1960年代末まで、もっとも効果的でシンプルなやり方であったからである。チクロンBを使用するように設計された、もしくはチクロンBを使用したシステムは一つも存在しなかった。

 その理由はきわめて単純であった。チクロンBは不活性の媒体からHCNを放出する(もしくはわきださせる)には非常に長くかかり、温風と温度良性システムを必要としたからである。ガスは即座に発生されないだけではなく、爆発の危険がいつも存在する。

 全体的なガス混合気は、最低爆発限界(LEL)=0.32%のガス混合気[数字の間違い、表1にあるように、6 Vol.-%が正しい](混合気は通常3200ppmを越えるはずはないので)よりも低い濃度であるが、発生装置のガスの濃度(不活性の媒体のチクロンBの場合にも)ははるかに高く、90から99 Vol.-%となるかもしれない。ほぼ、純粋なHCNに近く、この状況は室内の容器が使用されるそのときにまさに存在するであろう[もしも、ガスを分散させる強力な空気循環システムがなければ、チクロンB20°C/70°F の気温で、少なくとも1時間、ガスを放出する、もっと低い気温の場合にはさらにゆっくりと放出するので、媒体資材周囲の濃度は、大半の放出期間のあいだ、爆発限界以内にあるであろう。(ガス放出は厳格な物理的プロセスであるので)チクロンBの場合には、周期の気温もしくは温風の温度をかなり高く設定し、人為的にコントロールされなくてはならない。一方、ガス発生装置の場合には、温度は低く設定でき、発生装置の中での反応はいったん始まってしまえば自己触媒的に進むので、コントロールできない。電気的接触とスイッチは、室外においても、最小限に保たれなくてはならない。1960年代以降にやっと開発された技術によって、これまでの施設の中でもっとも先進的な施設となる予定であったミズーリのシステムが、液体HCN用のガス放出・供給システムを利用して、処刑後の青酸残余物を取り扱い、処理する危険性を取り除くことができるようになっている。

 表面的には、チクロンBは、ガス供給と青酸残余物問題を解決するもっとも効果的な手段であったように見えるが、実際には、問題の解決とはならなかった。事実、チクロンBの使用によって、処刑時間が長くなり、したがって、危険なガスをあつかう時間が長くなってしまった。また、暖める必要があったので、爆発の危険性も増してしまった。これを解決する手段は、デゲシュ社製の害虫駆除装置が行なっていたように、ガスを室外にポンプで出して、外部でガスを暖め、暖められたガス混合気を室内に戻すというやり方であったかもしれないが、このやり方は、ガス漏れという別の大きな危険性を高め、利用者を危険にさらすだけであったろう。圧力をかけられた部屋の外にガスを出してしまうのは、設計上マイナスであるし、きわめて危険だからである。デゲシュ社の装置は、戸外か、十分に換気がなされている区画で、訓練を受けた職員の立会いの下で――訓練を受けていない人々は立ち会っていない――使われるようになっていた。

 合衆国では、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、メリーランド、ミシシッピ、ミズーリ、ネバダ、ニューメキシコ、ノースカロライナが、ガスを処刑手段として使ってきた。しかし、ガスの取り扱いには危険が付きまとい、装置の維持費用も高いために、いくつかの州(ネバダ、ノースカロライナ、ニューメキシコ)は、致死性の注射を、唯一の処刑手段、もしくは代替手段として法制化している。おそらく、他の州もこれにならうであろう。本報告の筆者はミズーリ、カリフォルニア、ノースカロライナ州のコンサルタントであった。

 いずれにせよ、HCNガスの製造コストは高く、装置も大がかりで、維持コストも高いために、ガスは過去においても、そして、現在でも、もっとも高価な処刑手段である。

 

10HCNガスの毒性効果

 医学実験は、空気中300ppmの濃度のシアン化水素ガスは急速に死をもたらすことを明らかにしている。一般的には、処刑目的のためには、3200ppm濃度が、すみやかな死をもたらすために使われている。これは、気温と気圧によるが、おおむね、重さ120150g、容積2立方フィートのガスである。HCN200ppmほどは、30分以内で致死的であるDuPont, Hydrogen Cyanide, Wilmington, Delaware 7/83, pp. 5f.。毒性効果は「肌荒れ、発疹、目の痛み、目のかすみ、目の負傷」、「速い呼吸、血圧低下、失神、痙攣、死」、「窒息、呼吸困難、運動失調、昏睡、酸素代謝の中断による死」である[毒物学のきちんとした研究書であれば、これについて詳しく記してあるであろう。注釈者がドイツ人であるために、ドイツ語の参照文献もあげておく。W. Forth, D. Henschler, W. Rummel, Allgemeine und spezielle Pharmakologie und Toxikologie, Wissenschaftsverlag, Mannheim 1987, pp. 751f.; H.-H. Wellhoner, Allgemeine und systematische Pharmakologie und Toxikologie, Springer Verlag, Berlin 1988, pp. 445f

 青酸による死亡は、何も呼吸だけにかぎらない。50ppm以上の濃度にあっては、作業員は身体を守るために化学的防護服を着て、ボンベの空気を呼吸しなくてはならない[重労働をしていなければ、0.6 Vol.-%以下の濃度のHCNの皮膚からの吸収は、かならずしも、致命的になるわけではない。しかし、重労働の場合には、このレベルは劇的に低下してしまう。概して、ガスマスクには効果がなく、それを利用すべきではない。特別救急セットと医薬品を使えるようにしておき、人がガスに触れる可能性のあるところにはどこにでも備えておくべきである。

 

11:「ドイツの処刑ガス室」概史

 筆者が利用可能な資料にもとづくと、ドイツ人は処刑目的のための大規模(3人以上の被処刑者)[実際には、目撃証人たちは部屋ごとに数百から数千の被処刑者がいたと述べている。例えば、アウシュヴィッツの焼却棟ⅡとⅢについては、ルドルフ・ヘス(Henry Friedlander, The Holocaust, Vol. 12, p. 112)、およびチャールズ・ジギスムント・ベンデルによると2000人、ミクロス・ニーシュリ(see Jean-Claude Pressac, op. cit. (note 35), pp. 125, 253, 469ff)によると3000人、ペリー・ブロード(Erinnerungen,in Jadwiga Bezwinska, KL Auschwitz in den Augen der SS, Krajowa Agencja Wydawniczna, Katowice 1981, p. 180; see also: Josef Buszko (ed.), Auschwitz, Nazi Extermination Camp, 2nd ed., Interpress Publishers, Warschau 1985; Carlo Mattogno, The Bunkers of Auschwitz, Theses & Dissertations Press, Chicago 2004.によると4000ガス室を1941年後半に建設し、1944年末まで利用し続けたことになっている。

 アウシュヴィッツⅠの地下室での「最初のガス処刑」にはじまり、赤い家・白い家もしくはブンカー12として知られているビルケナウ(アウシュヴィッツⅡ)の改築された二軒の農家、アウシュヴィッツの焼却棟Ⅰ、ビルケナウの焼却棟Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、マイダネクの実験的施設――これらの施設はチクロンBというかたちでの青酸をガスとして使っていたという。マイダネクは一酸化炭素も使っていたという。

 アウシュヴィッツとマイダネク国立博物館で手に入れた公式文献によると、これらの処刑施設は、工業地帯の中心に建設された強制収容所の中に位置し、その囚人は軍需物資を生産する工場に強制労働を提供した。これらの施設には、「処刑された人々」の死体を処理する焼却棟もあったという。

 これに加えて、一酸化炭素だけを処刑ガスとして使った施設がベウゼック、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ(ガス車)にあったという。これらの施設は第二次世界大戦中か戦後に破壊されたことになっているので、検証は行なわれず、本報告の直接のテーマではない。

 しかし、一酸化炭素ガスのことをここで少し考察しておこう。一酸化炭素ガスは、死をもたらすまでにはかなりの時間がかかる、おそらく30分ほど、空気循環が乏しければ、もっと長い時間がかかるために、処刑ガスとしては、比較的効率の悪いガスである。一酸化炭素を利用するには、4000ppmの量が必要であり、この一酸化炭素によって室内気圧は2.5気圧ほどまで高くなってしまう[不可解である。4000ppmは、0.4%だけ気圧を高めるにすぎない]。さらに、二酸化炭素の利用も考えられた。二酸化酸素は一酸化炭素よりももっと効率的ではない。これらのガスを作り出したのはディーゼル・エンジンであったという。ディーゼル・エンジンの作り出す排気ガスには、一酸化炭素は非常に少なく[ディーゼル排気ガスは大量殺戮にはまったく向かない。ディーゼル・エンジンの発明以来、ディーゼル排気ガスによって死亡した事例はわずか1件にすぎない。心臓病をかかえた83歳の老人が、ディーゼル煙を吸い込んだことで心臓停止を引き起こしたという、see S. Sivaloganathan, Death from diesel fumes,Journal of Clinical Forensic Medicine, 1998, 5, pp. 138f. (www.vho.org/GB/c/FPB/DieselDeath.html)。ディーゼル・エンジンを使った大量殺戮説に対する反論については、see F.P. Berg, The Diesel Gas Chambers: Ideal for Torture Absurd for Murder,in: G. Rudolf (ed.), Dissecting the Holocaust, 2nd ed., Theses & Dissertations Press, Chicago 2003, pp. 435-469 (www.vho.org/GB/Books/dth/fndieselgc.html)試訳:ディーゼル・ガス室―拷問には理想的な代物、殺人には馬鹿げた代物―(F. P. ベルク)、死をもたらすのに十分なガスを提供するには、処刑ガス室の気圧をガス混合気で高めなくてはならない[ガスの気圧を高めることは、その濃度(パーセンテージ)を増やすことにはならない。毒ガスを致死性にまで至らしめるのは、ガスの絶対量ではなく、濃度(パーセンテージ)である]

 3000ppmもしくは0.30%の一酸化炭素に1時間さらされると、吐き気や頭痛を起こす。4000ppm以上の濃度であれば、1時間以上さらされると、死に到るであろう。筆者の見解では、9平方フィート弱(収容者の周囲にガスを循環させるのに必要な最低面積)を占有する人々が収容される室内にいる人間は、注入されたガスが効果を発揮するかなり前に、自分たちが空気を使い尽くしてしまうために、窒息死してしまう。それゆえ、閉ざされた空間の中に囚人を押し込めてしまえば、そもそも、外から一酸化炭素や二酸化炭素を注入する必要がなくなってしまうのであるここで、ロイヒターは、このような条件のもとでは毒ガスなしでも囚人は窒息死してしまうと考察しているが、それは正しい。私(G. Rudolf, op. cit. (note 60), pp. 211-216)とマットーニョ(C. Mattogno, Jurgen Graf, Treblinka, Theses & Dissertations Press, Chicago 2003, pp. 133f試訳:トレブリンカ:絶滅収容所か通過収容所か(C. マットーニョ、J. グラーフ))がくわしく計算している

 アウシュヴィッツⅠ(焼却棟Ⅰ)とマイダネクの「処刑施設」は、オリジナルなかたちで現存しているといわれている。ビルケナウでは、焼却棟Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴは崩壊しているか、土台だけが残っている。ブンカーⅠ(赤い家)は現存しておらず、ブンカーⅡ(白い家)は復旧され、個人住宅として使われている[この主張は虚偽である、see Carlo Mattogno, The Discovery of Bunker 1 at Birkenau: Swindles, Old and New,The Revisionist 1(2) (2003), pp. 176-183.建物の土台が、ブンカーⅡがあったとされている区画に現存しているが、この建物がどのような目的で使われていたのかについての文書資料的証拠はまったくない、see C. Mattogno, op. cit. (note 66)。マイダネクでは、当初の石油燃料焼却棟は取り除かれ、「ガス室」を備えた焼却棟に改築されたが、炉だけがオリジナルであるという[たしかに、古い焼却棟は戦時中に取り除かれたけれども、一つのガス室をもっていたとされる新しい焼却棟は、今日まで基本的に変らず残っている。4つのガス室があったとされる「入浴・害虫駆除施設」は、まったく別の建物であった。戦後、その建物の構造は変えられ、外見だけがそのまま残っている。See C. Mattogno, J. Graf, Concentration Camp Majdanek, 2nd ed., Theses & Dissertations Press, Chicago 2004 (www.vho.org/GB/Books/ccm)試訳:マイダネク強制収容所(J. グラーフ、C. マットーニョ)

 アウシュヴィッツの焼却棟Ⅰ、ビルケナウの焼却棟Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、マイダネクの現存の焼却棟は、焼却棟とガス室が結び合わされた施設だといわれている。ビルケナウの赤い家と白い家は、ガス室だけであったという。マイダネクでは、実験的ガス室は焼却棟に隣接しておらず、別個の焼却棟――現存していない――が存在したという。

 

12:「処刑ガス室」の設計と手順

 入手しうる歴史資料と施設自体の調査を通じて、「処刑ガス室」の大半は、初期の設計、目的、構造から改造されたものであることがわかる[ホロコースト正史派の歴史家でさえも、殺人ガス室として使われたとされるアウシュヴィッツの焼却棟Ⅰの死体安置室、ビルケナウの焼却棟Ⅱ、Ⅲの死体安置室が通常の死体安置室として設計されていた(焼却棟Ⅰの場合には、当初は死体安置室として使われていた)ことを認めている、例えば、Robert van Pelt, The Case for Auschwitz, Indiana Univ. Press, Bloomington/Indianapolis, IN, 2002 p. 72, 80. 焼却棟ⅣとⅤについては意見が一致していない。プレサックはこの件については立場を変えている(最初は犯罪的計画はなかった: J.-C. Pressac, Le Monde Juif, no. 107, July-September 1982, pp. 91-131; 最初から犯罪的計画があった:Pressac, op. cit. (note 35), p. 447; Pressac, Les crematoires dAuschwitz, SNRS, Paris 1993, p. 52)。一方、ペルトは最初から犯罪的計画があったと主張している (ibid., p. 80)。しかし、このような改造が行なわれたという説を立証する歴史資料は目撃証言以外にはないし、それを立証する施設自体やその廃墟の物理的痕跡もない。ガス処刑施設として特別に建設されたとされるマイダネクのいわゆる実験的部屋はまさに例外である[マイダネクの「実験的ガス室」――「入浴・害虫駆除」施設の中の部屋――が殺人目的で設計されたことを立証する歴史資料はまったく存在しない]

 ブンカーⅠとⅡは、アウシュヴィッツ国立博物館の文献では、いくつかの部屋と密閉された窓を持つ改造された農家として描かれている。オリジナルな状態のままでは残っておらず、検証されなかった。歴史的に、焼却棟Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴは、改造された死体安置室、死体置き場――焼却棟としての同じ施設の中にある――として描かれており、実地調査しても、そのようなものであったことが検証された[焼却棟は焼却棟であり、死体安置室ではない。焼却棟は多くの場合死体安置室を持っていたが、焼却棟の中のすべての部屋が死体安置室というわけでもない。そして、処刑ガス室とされる部屋すべてが、死体安置室であったというわけでもない。とくに、焼却棟ⅣとⅤでは死体安置室ではない。ここでは、死体安置室は建物の東の炉室に隣接する場所にあり、「ガス室」は建物の西端にあったとされている]これらの建物[焼却棟Ⅳ、Ⅴについては、コンクリートの土台以外にオリジナルなものは残っていない。今日見ることのできる壁は、アウシュヴィッツ博物館が出所不明の資材を使って戦後に建てたものであり (Pressac, op. cit. (note 35), p. 390; J. Markiewicz, W. Gubala, J. Labedz, B. Trzcinska, Expert Opinion, Prof. Dr. Jan Sehn Institute for Forensic Reserach, department for toxicology, Krakow, Sept. 24, 1990; partially published in: An official Polish report on the Auschwitz gas chambers,” Journal of Historical Review, 11(2) (1991), pp. 207-216 (online: www.vho.org/GB/Journals/JHR/11/2/IHR207-216.html)、オリジナルの配置図(図7参照)とは一致していない。したがって、焼却棟Ⅳ、Ⅴについては、現存のものを調査しても、意味のある結論を引き出すことはできない。焼却棟Ⅲの「ガス室」は除去されており、むき出しの煉瓦壁が残っているだけである。焼却棟Ⅱの同じ部屋の方が形状をとどめているが、屋根が崩落している。これらの廃墟には、部屋のオリジナルな設備を伝えている情報は、ごく限られたものしか存在していない。最後に、やはり処刑ガス室として使われたとされる焼却棟Ⅰの旧死体安置室の区画は、アウシュヴィッツ博物館が戦後に「再建」を試みたために、大きな構造的な変化を被っており、その結果、数多くの誤解が生じてしまっている(see Pressac, op. cit. (note 35), p. 158; Eric Conan, Auschwitz: la memoire du mal,LExpress, January 19-25, 1995; Robert van Pelt, Deborah Dwork, Auschwitz: 1270 to the Present, Yale University Press, New Haven and London 1996, pp. 363f.)。それゆえ、5つの焼却棟もしくはその残骸のどれ一つとして、それだけでは、オリジナルな設備と設計に関する包括的な結論を下すことはできない。いくつかの大まかな点だけを明らかにできるだけである。戦時中の状態を適切に評価するには、歴史資料にあたらなくてはならない。この件については私の「批判的コメント」3節「殺人ガス処刑」で立ちかえる予定であるを実地調査してみると、これらの施設を処刑ガス室として使うとすると、きわめて貧弱かつ危険な設計であることが明らかとなった。気密ドア、気密窓、気密換気口の装置もない。建物は、ガス漏れやガスの吸収を防ぐためにタールその他の密閉剤でコーティングもされていない。隣接する焼却棟は爆発の危険にさらされている爆発する混合気を生成するには、空気中に60000ppm6%)のHCNが必要であるが、処刑に必要な濃度はそのような数値に達することはほとんどないために、また、炉はガス室からかなり離れたところにある(とくに、焼却棟Ⅱ-Ⅴ)ために、爆発の危険はまったくない。このような危険が生じるとすれば、それはチクロンBの媒体の近くで、室内において火花が散る場合、例えば、倒れ掛かる犠牲者の指輪が壁を引っかく場合、もしくは、抗爆発処理をなされていない電気スイッチや証明から火花が散る場合だけであろう]

 ガスにさらされた多孔性の煉瓦とモルタルはHCNを蓄積し、これらの施設を何年間も人間にとって危険なものとするであろう[多孔性の建築資材はたしかにHCNを蓄積するが、HCNの使用が中止されれば、HCNはそのままのかたちで長期にわたって壁に残っているわけではない。数週間たつと、HCNの大半は揮発してしまうか、危険なものではないより安定した合成物(鉄シアン化合物)に化学的に変形してしまう。実験データについては、see L. Schwarz, W. Deckert, Zeitschrift fur Hygiene und Infektionskrankheiten, 107 (1927), pp. 798-813; ibid., 109 (1929), pp. 201-212。アウシュヴィッツでは焼却棟Ⅰは病院と隣り合わせであり[アウシュヴィッツ政治部、すなわち、収容所ゲシュタポ本部、およびアウシュヴィッツ守備隊駐車場本部も隣接していた。ここで働く職人も同じような危険にさらされたことであろう]、その床の排水口は収容所の主要下水システムと結びついている――このために、施設のすべての建物にガスが流れ込むことになっている普通の衛生施設はすべて悪臭を放つガスを防止するためにU字型パイプを備えているために、また、HCNはすぐに水に吸収されてしまうために、HCNガスが下水システムを介して、ほかの建物に浸透してしまうことはほとんどありえない。しかし、下水には毒素が混じってしまうので、入り江や川の下流では、魚が死んでしまうかもしれない。使用後にガスを排出するための排気システムはまったく存在しないガス室と間違って描かれている焼却棟Ⅰ-Ⅲの死体安置室は、死体安置室用に設計された換気システムを備えていた。その能力は、焼却棟のその他の部屋に設置された換気装置よりも低かったが、このことは、その目的が通常の死体安置室の換気であったことを明らかに示している。焼却棟Ⅰについては、see C. Mattogno, Auschwitz: Crematory I, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2005, pp. 17-22。焼却棟ⅡとⅢについては、cf. C. Mattogno, Auschwitz: The End of a Legend,in G. Rudolf (ed.), op. cit. (note 46), pp. 153-155試訳:アウシュヴィッツ:伝説の終焉(C.マットーニョ))。焼却棟ⅣとⅤのガス室とされた部屋といわゆるブンカーには換気システムが設置された証拠はまったくない。焼却棟ⅣとⅤについては、see C. Mattogno, Auschwitz: The End of a Legend, ibid., pp. 161-164試訳:アウシュヴィッツ:伝説の終焉(C.マットーニョ);。ブンカーについては、see C. Mattogno, The Bunkers of Auschwitz, op. cit. (note 66)。チクロンBを導入・放出させるための暖房装置、散布装置もまったく存在しない[このような装置は入手可能であったし、効率的なベルトコンベアー式大量殺戮に必要な前提条件であろう。それゆえ、このような装置が利用されていなかったとすれば、まったく不可解である]。チクロンBは屋根の換気口から落とされた[焼却棟Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ]、もしくは窓から投げ込まれた[焼却棟Ⅳ、Ⅴとブンカー]とされているが、それでは、ガスや丸薬を均等に散布することはできない。施設はいつも湿っており、暖められていない[これは、焼却棟ⅡとⅢの部屋およびブンカーに関してだけ正しい。焼却棟Ⅰの死体安置室は、稼働すれば、建物全体を暖めしまうであろう炉室に隣接していた。焼却棟ⅣとⅤの部屋には石炭ストーブがあった]。前述したように、湿気とチクロンBは両立しがたい。

 部屋は、いわれているところの数の収容者を収容するには物理的に狭すぎ[もっぱら物理的に考察すれば、この主張は、いくつかの説、例えば、焼却棟のⅡ、Ⅲの死体安置室には2000名以上が収容されていたという説に対してだけ正しい。犠牲者たちは軍事訓練を受けておらず、自発的に協力することもないはずなので、1㎡(10平方フィート)あたり5名以上の密度は非現実的である。だから、焼却棟のⅡ、Ⅲの死体安置室は床面積210㎡の物理的限界は、1000名ほどであろう。このような過密状態の部屋――しかも、装備は劣悪――が、いわれているように、継続的に稼働し続けることができたかどうかは、もちろん、まったく別の問題である]、また、ドアは内開きなのでこれは間違っている。焼却棟Ⅰ:洗浄室に向かうドアは外開きであった。炉室に向かうドアは自在式ドアであった。双方とも気密ドアではなく、また、パニックにおちいった犠牲者たちの圧力に抵抗できる強度もなかった(see SS-Neubauleitung, K.L. Auschwitz Krematorium, Nov. 30, 1940; RGVA, 502-1-312, p. 135; Bestandsplan des Gebaudes Nr. 47a B.W. 11, Krematorium, April 10, 1942; RGVA, 502-2-146, p. 21; taken from C. Mattogno, Auschwitz: Crematory I, op. cit. (note 81), docs. 1, 4; cf. C. Mattogno, The Openings for the Introduction of Zyklon B Part 1: The Roof of the Morgue of Crematorium I at Auschwitz,The Revisionist 2(4) (2004) p. 52)焼却棟Ⅱ、Ⅲのドアは外開きのスイング式ドアであった (see J.-C. Pressac, op. cit. (note 35), plans on pp. 285, 302 (Dec. 19, 1942), p. 308 (March 19, 1943), p. 311 (March 20, 1943), p. 322 (Sept. 21, 1943)。このスイング式ドアも気密ドアではなく、パニックにおちいった犠牲者たちの圧力に抵抗できる強度もなかった。焼却棟Ⅳ、Ⅴ:問題の二つのおもな部屋のドアはすべて外開きであった。これらのドアのうち二つは、ガス室としても使われたといわれている廊下側に向かって開いていた。もう一つの廊下に向かって外側に開く第三のドアもあった(see J.-C. Pressac, op. cit. (note 35), plan on p. 401; 7参照)、死体の除去を難しくしたことであろう。収容者で満杯の部屋では、HCNはまったく循環しなかった。さらに、ガスが長時間部屋に充満していたとすれば、屋根の換気口にチクロンBを投げ込んだ作業員、収容者の死を確認した作業員もHCNにさらされるために、死んでしまったことであろうHCNはそんなに速く殺さない。HCNの充満した部屋をちょっとのぞいただけでは、十分ではない。害虫駆除室は何年間も安全に稼働していたが、「ガス室」のどれ一つとして、この害虫駆除室の設計とマッチしたかたちで建てられていない[これは、デゲシュ社製空気循環害虫駆除室という高い水準を考慮すると、とくに正しい。十分に計画された、工業的コンベアベルト様式の大量殺戮には、このような高い水準が当然必要であろう]。また、「ガス室」のどれ一つとして、この当時合衆国で稼働していた施設の既知で立証済みの設計とマッチしたかたちで建てられていない。これらの「ガス室」を設計したとされる人々が、この当時唯一ガスで囚人を処刑していた合衆国の技術を参照・考慮しなかったとすると、それは尋常なことではないと思われる[ドイツと合衆国は1941年末に戦争状態に入った。これ以降、ドイツ人技術者が合衆国ハードウエアにアクセスできなくなったとしても、ドイツの大きな図書館には、英語の技術文献が常に大量に収録されていた。しかし、私の知り限りでは、合衆国の処刑技術のデータを記した文献は一つもない。この分野が合衆国の技術工学の重要分野ではなかったためであろう。だから、ロイヒターの主張は少々こじつけである

 マイダネクの施設も同様に、いわれているところの目的を果たすことはできない。第一に、「ガス室」を備えて改築された焼却棟についてであるが、改築以前に存在した建物の部分だけが焼却炉であった[この建物は改築されていない。しかし、この建物の中でガス室として使われたとされる部屋の技術的欠陥についてのロイヒターの評価は、正しい。すなわち、部屋には別の部屋からだけしかアクセスできなかったし、今もアクセスできない。壁の穴を閉じることができなかった。部屋を換気する手段がなかった。マイダネクの「ガス室」についての詳細は see C. Mattogno, J. Graf, op. cit. (note 72), pp. 119-159試訳:マイダネク強制収容所(J. グラーフ、C. マットーニョ)。建物は改築されたが、その計画は実在していない。施設の建築様式では、「ガス室」の中にガスを閉じ込めておくことはできなかったにちがいないし、部屋自体も、いわれているところの数の犠牲者を収容するには小さすぎる。建物は湿っており、気温も低いので、チクロンBを効果的に使うことができなかった。ガスは炉に達してしまい、作業技師全員を殺してから[この部屋を密閉することはできないので、建物にいた人々全員が殺されたことであろう]、爆発を引き起こし、建物を破壊してしまったであろうこれはありそうもない。前のコメント参照]。最後に、注入コンクリートという建築様式が、施設のあるほかの建物と非常に異なっている。

 手短にいえば、この建物を、いわれているところの目的のために使うことはできなかったし、この建物はガス室に関する最低限の設計基準を充たしていない。

 マイダネクの第二の施設は、図面上ではU字型の建物であるが、実際には、別々の二つの建物である。この施設は、入浴・害虫駆除建物12と呼ばれている。一つの建物はまさに害虫駆除施設であり、ビルケナウにおいて害虫駆除施設と認められている建物と同じように設計されている。二番目の建物は少々異なっている。建物のフロント部分にシャワー室と「ガス室」がある。この部屋には青いしみが残っているが、それは、ビルケナウの害虫駆除施設にある青いしみと同一のものである。この部屋の屋根には、害虫駆除処理が終わったのちに、部屋を換気する二つの換気口がある[この主張を確証する文書資料的証拠がある。see C. Mattogno, J. Graf, op. cit. (note 72), pp.もしも、これまでいわれてきたように、これらの穴がチクロンBを投入するために使われていたとすれば、それは、換気のための換気ダクトとは切り離されていなくてはならないので、換気用に使うことはできなかったはずである。ドアを使った換気も不可能であった。その一つはシャワー室に向かって開いており、もう一つは内側に開いているからである。さらに、内側から開けることができたとしても、それによって、囚人たちは脱出することができてしまう。また、この部屋の窓は普通の窓であるので、閉じ込められている囚人たちによって壊されてしまったであろう。それゆえ、チクロンBは手で床におかれたことになるので、明らかにこの部屋は処刑室ではない。この部屋は空気を循環させる装置も、換気煙突も備えていない[天井の穴と煙突を結ぶダクトは、屋根の設計が変更されたので、戦後に取り除かれた]

 この建物は他の施設と同様に、処刑ガス室として設計されたわけでもないし、そのように使うこともできない。この建物の後部に実験的ガス室がある。この区画には、屋根つき通路、コントロール室、ガス室として使われたといわれている二つの部屋がある。三番目の部屋は封印されており、調査できない。この部屋は、二つとも、コントロール室からコントロールされる一酸化炭素を使うためとされるパイプを備えているという点でユニークである。一つの部屋は、天井のところに換気口となる可能性のある穴を持っているが、それは、屋根を穿ちぬいてはいなかった。もう一つの部屋は温風を室内に送り込む温風循環システムを備えている。この循環システムの設計は効率的ではない。吸気口と排気口の位置が近すぎるために、効果的に稼働しないし、換気装置も備えていない[もともとこの部屋は温風害虫駆除室として設計され、使用されたので、換気システムを必要としていなかった。See C. Mattogno, J. Graf, ibid., pp. 146, 149。二つの部屋双方に注目すべき点は、4つのスチール製ドアにはねさぎ用の切り込みもしくは溝のようなものが刻まれていることである。この二つの部屋ではチクロンBもしくは一酸化炭素が使われたという話になっているが、そのようなことはありえない。

 二つの部屋のうち一つは完成しておらず、そこで一酸化炭素を使うことはできなかったにちがいない。また、たとえHCNが使われたという話であったとしても、そのような設計にもなっていない[この部屋には壁に穴がある。それゆえ、どのような種類であれ、毒ガスを放出する処理には使えない、ibid., pp. 147f., 308。大きいほうの部屋はHCN用に設計されていない[その壁には鉄青からの青いしみが残っている。そのことは、この部屋でHCNが使われたことがあることを証明しているが、外側からチクロンBを投入する穴が存在しないので、シラミの駆除のためにだけ使われたibid., pp. 144, 307。「実験的」という標識がドアにかかっているにもかかわらず、この部屋は一酸化炭素による処刑を遂行することができなかったであろう。必要とされる2.5気圧もとで4000ppm(致死濃度)の一酸化炭素を提供しなくてはならなかったからである[一酸化炭素の濃度を高めるために室内の気圧を高める必要はない。金属ボンベからでてきた一酸化炭素が金属パイプを介して、部屋を満たしたということになっている。金属パイプはまだこの二つの部屋に残っている (ibid., pp. 293, 307)。しかし、この部屋の一つには、閉じることが可能な穴が壁にない。この事実は、この金属パイプが、何か毒性のガスを部屋の供給するために使われたのではないことを証明している。また、今日この場で展示されている金属ボンベは、マイダネク博物館の話では、オリジナルなボンベということになっているが、その中身が「二酸化炭素」であると明示している。二酸化炭素には毒性はないIbid., p. 145。この二つの部屋はともに、換気、暖房、空気循環、空気漏の対処に必要な設計にマッチしていない。内側外側から密封剤でコーティングされている煉瓦、漆喰、モルタルはどこにもない。

 この建物群のもっとも注目すべき特徴は、その三方がくぼんだコンクリートの通路で囲まれていることである。これは、聡明なガス処理設計とはまったくマッチしていない。漏れてきたガスはこの壕に堆積し[このくぼんだ通路がオリジナルなものであるのか、戦後に付け加えられたものであるのか定かではない。しかし、HCNはその他の毒ガスの大半とは異なり、空気よりも少し軽いので、このような場所に堆積してしまうことはありそうもない、風から守られているために、分散しないであろう。このために、とくにHCNにあっては、この区画が死の落とし穴となってしまうであろう。

 それゆえ、筆者は、この施設には、たとえ限定的にではあっても、HCNガスを使用する目的がまったくなかったと結論せざるをえない。

 

13:焼却棟

 新旧双方の焼却棟を考察するのは、ドイツの焼却棟がその与えられた課題を果たすにあたってどのような機能を持っていたのかを検証するためである[ドイツでの焼却技術の発達に関する歴史的概観については、see C. Mattogno, The Crematoria Ovens of Auschwitz and Birkenau, in: Germar Rudolf, op. cit. (note 68), pp. 373-412, here pp. 375-378

 死体の焼却は新しいコンセプトではない。何世紀にもわたって、数多くの文化が死体を焼却してきた。数千年前からも行なわれていたにもかかわらず、カトリック教会が認めようとしなかったために、近年では、教会の反対が緩やかになった18世紀後半になるまで行なわれなかった。

 正統派のユダヤ教も焼却を禁止していた。1800年代初頭までに、ヨーロッパでは焼却が限定的にではあるが、ふたたび行なわれるようになった。焼却は、疫病の流行を防ぎ、密集地域で有効な土地を確保し、地面が凍結する冬期に死体を保管しなくても良いという利点を持っている。ヨーロッパの初期の焼却棟は、石炭・コークス燃料の炉であった。

 死体焼却用の炉は、的確にもレトルトと呼ばれている。初期のレトルトは、死体からすべての水気を奪い、灰に変えてしまう炉にすぎなかった。骨は燃え尽きることはなく、今日でも、砕かなくてはならない。初期には臼とすりこぎが使われていたが、今では、破砕機がそれに代わっている[炉の温度が十分に高ければ、骨の有機質部分は燃えつき、もろい無機質部分だけが残る。ちょっとでも手を触れれば、もしくは、それ自体でほっておいても、崩れて灰となってしまう]。現代のレトルトの大半はガス燃料式であるが、オイル燃料式も少しは残っている。合衆国とカナダでは、石炭・コークス燃料式のものは一つもない。

 初期のレトルトは乾燥・焼却釜にすぎず、たんに、死体を乾燥・焼却した。金属で煉瓦を覆った金属製の現代のレトルトは実際に、ノズルから炎を死体に吹きかけて火をつけ、すみやかな燃焼・焼却を行なっている。現代のレトルトは、燃焼してガス化した物質の中の汚染物質をもう一度燃やすための二番目のバーナーもしくはアーフターバーナーも備えている。大気汚染を監視するさまざまな州当局が、この二番目のバーナーの設置を課している。死体が汚染に責任があるわけではないことを指摘しておかなくてはならない。汚染を引き起こすのは、ひとえに、使われた化石燃料である。コストは非常に高くつくが、電気式レトルトならば、汚染物質を生み出すことはない。

 これらの現代のレトルトは華氏2000度で燃焼し、華氏1600度のアーフターバーナーを備えている。この高温のために、死体はそれ自身で焼き尽くされ、バーナーの停止を可能とする。過去においてはそうではなかったが、今日では、木の棺と紙の箱は死体と一緒に焼却され、高温のために、そのことで時間がかかることはない。ヨーロッパの焼却棟には、昔からの低音800℃(華氏1472度)で稼働し、作業時間も長いものがある。

 現代のレトルトは、華氏2000度で稼働し、外部から2500cfmの空気を提供されることで、1体を1.25時間で焼却する。理論上は、24時間で19.2体である。製造元の推奨する正常稼働・持続使用は1日に3回もしくはそれ以下の使用である。旧式のオイル・石炭・コークス炉――強制送風空気(炎が直接死体にあたるわけではない)――では、通常、1体につき3.5時間から4時間かかる間違いである。民間の焼却棟では、次の死体――普通は棺の中にあるために、炉の熱からしばらくのあいだ死体が隔たれてしまうので、焼却が遅くなる――が燃焼室に押し込まれるのは、前の死体が完全に燃え尽き、その灰がすべて取り除かれてからである。この手順は、チフスの蔓延という緊急事態のときには、アウシュヴィッツでは守られなかった。まず、アウシュヴィッツの燃焼室は、小さかったので、棺を押し込むことはできなかった。ついで、次の死体を押し込むことができたのは、前の死体の各部分が格子網を介して、燃焼室の下にある燃焼後室(灰受け室)に落ちていってからのことであった。この手順にかかる時間は、炉の設計にもよるが、1時間をかなり下回った。アウシュヴィッツの炉は、そんなに焼却時間を短縮できなかったが、それでも、1時間ほどであり、ロイヒターの主張よりもはるかに速い。くわしくは、see the study by. C. Mattogno, op. cit. (note 101)。このために、アウシュヴィッツとマイダネクの焼却能力についてのロイヒターの計算はすべて、不適切なものとなっている

 理論上は、最大で、24時間に6.8体を焼却できることになる。通常の稼働は、最大で24時間に3回の焼却を可能としている。これらの計算は1回の焼却あたり1レトルトあたり1体にもとづいている。これらの現代のレトルトは、すべて金属製であり、高品質の耐火煉瓦で覆われている。燃料はポンプによって直接レトルトに送り込まれ、すべてが電気式かつ自動コントールである。石炭・コークス燃料炉は、均等な温度(最大華氏1600度ほど)で燃えないので、絶えず手動で燃料を追加し、制御しなくてはならなかった。死体に炎が直接あたるわけではなかったので、送風器だけが炎を燃え立たせ、釜の温度を上げた。この粗雑の稼働方法で生み出される熱は、華氏1400度ほどであったろう[実際には、華氏1600度(870℃)にまで達しえた]

 検証の対象としたドイツの施設で使われていた焼却棟は旧式のものであった。それは、赤レンガとモルタルでできており、耐火煉瓦で覆われていた。すべての炉はいくつかのレトルト=燃焼室を持っており、送風器のついたものもあった(死体に直接炎をあてる装置は一つもない)が、どれ一つとしてアーフターバーナーを備えておらず、コークス燃料式であった(マイダネクの現存していない一つの施設だけが例外)。現場での検査・検証の対象としたレトルトはどれ一つとして、同時に何体かの死体を焼却できるようには設計されていなかった正しい。炉のドアは非常に狭いので何体かの死体をそこから同時に押し込むことはできなかった60cm×60cm、また、上部は半円アーチ型で、下部には死体ストレッチャー用のローラーが付いていたので、いっそう、狭くなっていた)。平均的な棺であっても、このドアから押し込むことは難しかったであろう]。焼却対象となる死体の焼却に必要な熱量が適切に供給されるように特別に設計されていなければ、そのレトルトは、中の資材を焼き尽くしえないことを指摘しておかなくてはならない[アウシュヴィッツの炉のガス発生装置(暖炉)は、1燃焼室あたり1体を焼却するのに必要なだけの熱を生み出すように設計されていた。燃焼室に1体以上の死体を押し込むことはできたかもしれないが、これらのガス発生装置では、死体の水分を蒸発させるのに必要な熱を提供しえないので、燃焼室の温度が下がり、焼却過程が遅れてしまう。また、死体の水分が蒸発してしまえば、1つの燃焼室で何体もが燃え上がることによる余分な熱のために、これらの燃焼室の温度、ひいては、導管や煙突の温度が上昇してしまい、それを傷つけてしまうこともありうる]1焼却あたりの1レトルトにつき1体の焼却時間の算出にもとづく、24時間あたりの理論上の能力推定値と実際の能力推定値[コークス燃料炉は毎日、停止・清掃・再点火されなくてはならないだけではなく、メンテナンスと修理も実際の稼働時間をさらに減らしてしまったという推定にもとづいている。ロイヒターは、稼働時間は44%にすぎなかったと推定している。彼の推定は理論上のものであるが、マットーニョの研究が明らかにしているように、この推定は理にかなっている]は表2にまとめてある。

 

2:理論上と実際の最大能力推定値

 

 

理論値

実際値

焼却棟Ⅰ

炉:3、燃焼室:各2

6燃焼室×6.8

6燃焼室×3

 

40.8

 

 

18

焼却棟Ⅱ

炉:5、燃焼室:各3

15燃焼室×6.8

15燃焼室×3

 

102.0

 

 

45

焼却棟Ⅲ

炉:5、燃焼室:各3

15燃焼室×6.8

15燃焼室×3

 

102.0

 

 

45

焼却棟Ⅳ

炉:2、燃焼室:各4

8燃焼室×6.8

8燃焼室×3

 

54.4

 

 

24

焼却棟Ⅴ

炉:2、燃焼室:各4

8燃焼室×6.8

8燃焼室×3

 

54.4

 

 

24

マイダネク1

炉:2、燃焼室:各1

2燃焼室×6.8

2燃焼室×3

 

13.6

 

 

6

マイダネク2

炉:5、燃焼室:各3

15燃焼室×6.8

15燃焼室×3

 

102.0

 

 

45

24時間あたりの理論上の能力推定値合計=469.2

24時間あたりの実際の能力推定値合計 =             207

 

14HCN、シアン化合物、焼却棟の法医学的考察

 前述したように、ポーランドの現場から、煉瓦、モルタル、コンクリート、堆積物の法医学的サンプルを選択的に採取した[ロイヒターのサンプル採取方法は批判されてきた、see Errol Morris VHS video Mr. Death: The Rise and Fall of Fred A. Leuchter (VHS: Universal Studios 2001; DVD: Lions Gate Home Entertainment, 2003)試訳:映画評「ミスター・デス」(G. Raven); cf. William Halvorsen, Morris Shines a Light on Fred Leuchter,The Revisionist, no. 3, 2000 (www.vho.org/tr/2000/3/tr03leuchter.html). 例えば、一つの事例では、ロイヒターは、焼却棟Ⅱの死体安置室1の廃墟の水たまりから煉瓦の破片を採取している。煉瓦は長期的に安定した鉄シアン化合物を形成しないし、ロイヒターが水たまりから拾い上げた煉瓦の破片の正確な起源や素性を明言できない。シアン化物とシアン化合物は当該の場所に長期間残っており[このことは、とくに、プロシアン・ブルー、ベルリン・ブルー、ターンバル・ブルーなどとも呼ばれることもある鉄青という鉄シアン化合物の場合に正しい。それらは基本的に、破壊できない不滅の存在である。J.M. Kape, E.C. Mills による長期安定性実験参照。J.M. Kape, E.C. Mills, Transaction of the Institute for Metal Finishings, 35 (1958), pp. 353-384; ibid., 59 (1981), pp. 35-39; これらの化合物の安定性についての詳細は私の専門家報告op. cit. (note 60), pp. 170-180試訳:ルドルフ報告、アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告)参照、もしも、他の化学物質と反応していなければ、煉瓦とモルタルの周囲に移動しているであろう[このことは、鉄青の前身:鉄シアン化合物のアルカリ・アルカリ金属塩について正しい。この移動の結果は、チクロンB害虫駆除室に見ることができる。ここでは、これらの化合物は壁の表面の特定の部分に蓄積され、青い鉄青に変わっている]

31のサンプルが焼却棟Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴの「ガス室」から選択的に採取された。基準サンプルはビルケナウの害虫駆除施設1[ビルケナウの建設区画BAlaの建物BW5aのチクロンB害虫駆除翼のことである。同じような建物BW5bが建設区画BAlbにある]から採取された。基準サンプルは、シアン化物が使用されたことが知られており、今日でも青いしみを残している場所にある害虫駆除室から採取された。基準サンプル32の化学実験は、非常に高い濃度1050 mg/kgのシアン化物を示した。これらのサンプルが採取された区画の条件は、基準サンプルの条件と同等で、冷たく、暗く、湿っていた。焼却棟ⅣとⅤだけが、この場所(建物は崩壊している)に太陽があたり、太陽光線は合成されていないシアン化物の破壊を促してしまう[太陽光線は鉄青の破壊に非常に限られた影響しか持っていない。しかし、環境的な影響が、前身の化合物が非常に安定した鉄青への反応を促す、see my expert report, op. cit., pp. 176f., 258-265という点で異なっていた[焼却棟ⅣとⅤの再建された壁の断片の資材の素性は知られていないので、これらのサンプルは解釈の対象としえない]。 シアン化物はモルタルと煉瓦の中で鉄と結びつき、非常に安定した鉄シアン化物である第二鉄・第一鉄シアン化合物もしくはプロシアン・ブルーとなる[第一鉄シアン化合物を第二鉄シアン化合物に変えるのに必要な媒体としての超過シアン化合物を含む、この正確なメカニズムについては、see my expert report, ibid., pp. 159-170, 180-189

 

3:分析サンプルを採取した場所

アウシュヴィッツⅠ

焼却棟Ⅰ-サンプル2531

ビルケナウ(アウシュヴィッツⅡ)

焼却棟Ⅱ-サンプル17

焼却棟Ⅲ-サンプル811

焼却棟Ⅳ-サンプル1320

焼却棟Ⅴ-サンプル2124

サンプル12は、ビルケナウのサウナからのガスケットサンプルである。

サンプル32は、ビルケナウの害虫駆除施設1から採取した基準サンプルである。

 

 特筆すべきは、ほぼすべてのサンプルがネガティブで、少数のポジティブなサンプルも検出最低レベル(1 mg/kg)に非常に近いことである[この方法での検出最低レベル=1 mg/kgは、液体サンプル用に決められたものである。建設資材は固形であり(モルタル、セメント、コンクリート)、通常は大量の炭酸塩を含んでおり、そのことは検出方法に誤差を生じさせてしまうために、検出最低レベルは1 mg/kgよりもはるかに高いであろう。モルタルとコンクリートのサンプルに対する分析は何回も行なわれたが、いずれも10 mg/kgよりも低くかった。この事実は、同じような分析結果を再検証することはできなかったので、検出最低レベルが1 mg/kgよりもはるかに高いことを示している。それゆえ、固形サンプルについては10 mg/kgよりも低い分析結果を適切な結論を導き出す材料と見なすことはできず、0とみなすべきであるSee my expert report, ibid., pp. 253, 258.。焼却棟Ⅲが6.7mg/kg、焼却棟Ⅰが79 mg/kg[特筆しておくが、ロイヒターのサンプル281.3mg/kg)は、殺人ガス室であったという話しになっているが、実際には、戦時中には死体安置室ではない場所からたまたま採取された。この場所は、チクロンBが使われたという話しにはまったくなっていない洗浄室の一部であった。それゆえ、前の注釈の内容は重要であり、正しいことになる]。基準サンプルが1050 mg/kgであることと比較すると、これらの場所で十分な数値が検出されなかったことは、これらの施設が処刑ガス室ではなかったことを確証している。少量が検出されたことは、これらの建物でも、収容所のその他の建物と同じように、チクロンBによる害虫駆除が行なわれたたことを示している前述したように、このような小さな数値を使って何事かを解釈することはできないので、このような数値では、この部屋でチクロンBが使用されたことをまったく証明しえないというのが適切な評価である

 さらに、青いしみの区画には、高い濃度の鉄分――もはや青酸ではなく[青酸はきわめて揮発性で、化学的にはむしろ不安定な液体であるので、それが使用されて50年たっても検出されることはありえない。だから、この箇所は「もはやあまり安定していないシアン化塩ではなく」と読むべきである]、第一鉄・第二鉄シアン化物――がみられる[このサンプルの中の鉄分濃度は、青いしみのない箇所のサンプルと比べて、とりたてて高いわけではない(see my expert report, op. cit. (note 60), pp. 254f)。煉瓦、コンクリート、モルタルのような建物資材には、この程度(13%)鉄分が含まれているのが普通である。この鉄分は、5%までの酸化鉄分を含む合成粘土(煉瓦)、セメントと砂(コンクリートとモルタル)からでてくる、See my expert report, op. cit. (note 60), pp. 180f., 183, 185.

 「処刑ガス室」で採取されたサンプルには(そこで使用されたといわれるガスが大量であるために[チクロンBの使用量について述べている証人は少ないが、害虫駆除で使用されたのとほぼ同じ量であったと述べている、see my expert report, op. cit. (note 60), p. 211。しかし、非常に多くの証人が処刑時間は短かったと述べていることと、「ガス室」の技術的特徴とを勘案すると、使用された毒ガスの量は、害虫駆除で使用された量よりもはるかに多かったにちがいない、see my expert report, op. cit. (note 60), p. 208-216; see also chapter 4.3. of this section)、基準サンプルからよりも、高い濃度のシアン化物が検出されると予想できるであろうここで、ロイヒターは結論に飛びついている。殺人ガス室では害虫駆除作業でよりも高い濃度が検出されると予想するには、使用された毒ガスの量を考慮するだけではなく、壁ガスにさらされていた時間、および、形成される長期安定性のシアン化物の残余物の量を左右する壁資材の物理的・化学的状態も考慮しなくてはならないからであるSee chapter 4.3. for more details。実際は、その逆の分析結果となっているために、検証によって入手しえたその他の証拠と勘案すると、これらの施設は処刑ガス室ではなかったと結論せざるをえない。

 焼却棟の機能についての証拠は、焼却棟Ⅰの炉はまったく再建されたもの、焼却棟ⅡとⅢは部分的に破壊されており、構成部品は失われている、焼却棟ⅣとⅤは失われているので、現存していない[アウシュヴィッツの焼却施設とドイツ第三帝国の類似施設についてのくわしい文書資料の助けを借りれば、アウシュヴィッツの焼却棟の機能をくわしく明らかにすることができる]。マイダネクでは、焼却棟の一つはまったく失われており、もう一つは、炉以外は再建されたものである。メモリアルとして展示されているマイダネクの灰の山を実際に見てみると、その色は奇妙にもベージュである。(筆者自身の観察によると)、実際の人骨は牡蠣の灰色である。メモリアルとして展示されているマイダネクの灰の山には砂が混ざっているのであろう。

 さらに、筆者はこの節で「焼却壕」についても考察する。

 筆者は個人的にビルケナウの焼却壕を調査し、その写真を撮った。特筆すべき点は、これらの壕の水位が非常に高いこと、1.5フィートほどであることである。歴史文献によると、これらの壕の深さは6m19.55フィート)であった[アウシュヴィッツの壕についての目撃証言は、1.50mから6mのあいだである。S. ドラゴン:3mJ.-C. Pressac, op. cit. (note 35), p. 171)、M. ニーシュリ:3ヤード(ibid., p. 177)、M. Benroubi2.50m (ibid., p. 162)F. ミューラー:2m (Filip Muller, Sonderbehandlung, Steinhausen, Munich 1979, p. 207) M. Garbarz: 1.50 m (J.-C. Pressac, ibid., p. 164)。水の下で死体を焼却することは、たとえ人工的な促進剤(ガソリン)を使ったとしても、不可能である。博物館が公式にあげている壕の場所すべてを調査したところ、ビルケナウは湿地帯に建設されているために、この場所は地面から2フィート掘れば水が出てくる。だから、ビルケナウには焼却壕は存在しなかったというのが筆者の見解である[この点は、戦時中に水位が高かったどうにかついての二つの科学的研究によって確証されている、see Michael Gartner, Werner Rademacher, Ground Water in the Area of the POW camp Birkenau,The Revisionist, 1(1) (2003), pp. 3-12; Carlo Mattogno, “‘Incineration its and Ground Water Level in Birkenau, ibid., pp. 13-16 (www.vho.org/tr/2003/1/Mattogno13-16.html)

 

15:アウシュヴィッツ、焼却棟Ⅰ

 

4:オリジナル状態のアウシュヴィッツⅠ/中央収容所の焼却棟Ⅰ平面図

のちに、死体安置室は「ガス室」として使われたといわれたJ.-C. Pressac, op. cit. (note 35), pp. 151, 153

1:前室 2:配列室 3:洗浄室 4:死体安置室 5:炉室 6:石炭貯蔵室 7:骨室

 

焼却棟Ⅰにある公式に処刑ガス室とされている部屋を詳細に研究し、博物館職員から手に入れた現存の青写真を詳細に分析してみると、「ガス室」は、「ガス処刑」が行なわれていたとされている時期には死体安置室、のちには防空シェルターであったことがわかる。本報告の筆者が作成した図面は、1941925日から1944921日の時期の状態を復元したものである。約7680立方フィートの死体安置室には二つの出入り口があるが、いずれも外から開けることのできるドアを備えていない。一つの出入り口は炉室に、もう一つの出入り口は洗浄室に向かっている。二つに出入り口にはドアがなかったと思われるが、壁の一つと出入り口の一つが除去されているために、検証できなかった[この場所のオリジナル図面にはドアがのっている。焼却棟Ⅰ:洗浄室に向かうドアは外開きであった。炉室に向かうドアは自在ドアであった。双方とも気密ドアではなく、また、パニックにおちいった犠牲者たちの圧力に抵抗できる強度もなかった(see SS-Neubauleitung, K.L. Auschwitz Krematorium, Nov. 30, 1940; RGVA, 502-1-312, p. 135; Bestandsplan des Gebaudes Nr. 47a B.W. 11, Krematorium, April 10, 1942; RGVA, 502-2-146, p. 21; taken from C. Mattogno, Auschwitz: Crematory I, op. cit. (note 81), docs. 1, 4; cf. C. Mattogno, The Openings for the Introduction of Zyklon B Part 1: The Roof of the Morgue of Crematorium I at Auschwitz,The Revisionist 2(4) (2004) p. 52)。特筆すべきは、アウシュヴィッツ博物館公式ガイドブックは、この建物が1945127日の解放の時点と同じ状態のまま残っていると述べていることである[このあからさまな嘘は、博物館長ピペルへのインタビューの中で確証されている、see David Cole Interviews Dr. Franciszek Piper, Director, Auschwitz State Museum, VHS video (online with links to the video: www.vho.org/GB/c/DC/gcgvcole.html); also in Journal of Historical Review 13(2) (1993), pp. 11-13試訳:アウシュヴィッツ国立博物館員ピペル博士へのインタビュー(D. コール)

 死体安置室の区画には、4つの屋根の換気口と1つの暖房用煙道[実際には、1944年末に設置された防空シェルターの換気煙突である]がある。この煙道は開いたままであり、閉じられたことがある証拠はまったくない。屋根の換気口は密閉されておらず、まだ新しい木造であるので、最近作り直されたものであることを示している[これらの穴とこの部屋の文書資料についてのくわしい研究は、これらの4つの換気口が戦後になって屋根に付け加えられたものであることを示している、see C. Mattogno, The Openings for the Introduction f Zyklon B Part 1: The Roof of the Morgue of Crematorium I at Auschwitz,The Revisionist (4) (2004), pp. 411-419。壁と天井は漆喰であり、床はコンクリート敷きである。床面積は844平方フィート。天井は梁で支えられ、床には、防空壕の壁が取り除かれた痕跡が残っている[アウシュヴィッツ博物館は、この作業によって、一つの壁をの取り除き、オリジナル死体安置室の一部ではない洗浄室を「ガス室」に結び付けて展示している。だから、オリジナルの死体安置室は、今日見学者に展示されているよりも20%ほど小さい]。照明は、昔も今も抗爆発性ではない。部屋の床には排水口があり、それは、中央収容所の排水・下水システムとつながっている。ガスの循環を可能にする面積を一人あたり9平方フィートとすると――これでも、過密であるが――、この部屋に一時に収容できるのは最大94人であろう。しかし、600人もの人員を収容したという話になっている。

 前述したように、「処刑ガス室」は、そのようなものとして使われるようには設計されていない。この施設には排気システムや、どのようなものであれ、換気扇が付いていたという証拠はないオリジナルの死体安置室は換気システムを備えていたが、それは、文書資料によると、殺人ガス室ではなく、死体安置室を換気するためのものであった。その排気ダクトは焼却棟の煙道とつながっており、その煙道は炉からの排気ガスと死体安置室の汚れた空気を煙突に送るものであった。もしも大量のチクロンBが死体安置室で使われたとすれば、この換気システムは、炉が稼働していたと仮定すると、チクロンBガスと熱い炉からのガスを混ぜて排出していたことになる。熱いガスはすみやかに上昇していくので、HCNと混じりあったこの排気ガスがこの焼却棟に隣接する区画に深刻なダメージを与えることはないであろう。しかし、このような設計のもとでは、突風が吹いたり、炉が稼働していない場合、もしくは適切に稼働していない場合には、この焼却棟に隣接する区画では災難が起こりうる。また、排気ガスの中のHCN濃度が爆発点を超えた場合――例えば、チクロンBの丸薬が排気管の中に落ちることで――、このガスが炉の煙道に入ると爆発が起るに違いない。あまりありそうもないことではあるが、可能性はゼロというわけではない。それゆえ、このような設計は非常に劣悪なものであるといいうるのであろう]。「処刑ガス室」の換気システムは、屋根から2フィート以下の4つの四角の排気穴だけである。

 このようなやり方でHCNガスを排出すれば、道のすぐ向こう側にあるSS病院にガスが到達し、患者や職員が死んでしまったにちがいない。この建物には、ガス漏れを防ぐ密閉剤がほどこされていない。炉室にガスが漏れるのを防ぐガス気密ドアを備えていない[文書資料によると、この建物にガス気密ドアが設置されたのは、1944年末に防空シェルターに改築されてからのことであった、Herstellung der fur die Beheitzungsofen, sowie fur die Ent- und Beluftung erFRED. orderlichen Mauerdurchbruche und Schlauche, letter from the Auschwitz Air Raid Warden, Aug. 26, 1944, RGVA 502-1-401, p. 37; see C. Mattogno, No Holes, No Gas Chamber(s),The Revisionist 2(4) (2004), pp. 387-410, here p. 407。死体安置室のオリジナルのドアはガス気密でも、パニックにおちいった人々の圧力に耐えることができるものでもなかった。排水設備は、ガスが収容所のすべての建物に浸透してしまうのを許してしまうようなものである。暖房システムもない。空気循環システムもない。排気システムもしくは換気煙道もない[前注参照]。ガス散布システムもない。室内はつねに湿っている。室内に大量の人が押し込まれているために、空気循環がない。チクロンB資料を効果的に投下する手段がない。こうした事実のために、この死体安置室を処刑ガス室として使用することはまったくの自殺行為であろう。ガス爆発が起こってしまうか爆発する混合気を生成するには、空気中に60000ppm6%)のHCNが必要であるが、処刑に必要な濃度はそのような数値に達することはほとんどないために、また、炉はガス室からかなり離れたところにある(とくに、焼却棟Ⅱ-Ⅴ)ために、爆発の危険はまったくない。このような危険が生じるとすれば、それはチクロンBの媒体の近くで、室内において火花が散る場合、例えば、倒れ掛かる犠牲者の指輪が壁を引っかく場合、もしくは、抗爆発処理をなされていない電気スイッチや証明から火花が散る場合だけであろう]、収容所全体にガスが漏れてしまうであろう。

 さらに、部屋がこのように使われたならば(100立方フィートあたり4オンスもしくは0.25ポンド)、30.4オンスもしくは1.9ポンドのチクロンBガス(チクロンBの総量はチクロンBガスの3倍である、チクロンBの数字はすべてガスだけのものである)[目撃証言がいうところの短い処刑時間を達成するには、ここでロイヒターが挙げている数字よりもはるかに多くのチクロンBが使われなければならなかったであろう。非常に多くの証人が処刑時間は短かったと述べていることと、「ガス室」の技術的特徴とを勘案すると、使用された毒ガスの量は、害虫駆除で使用された量よりもはるかに多かったにちがいない]が(ドイツ政府の燻蒸数字にもとづくと)、そのつど華氏41度で16時間使われたことであろう。さらに、少なくとも20時間の換気を行ない、室内が安全かどうかを調べるためにテストも実施しなくてはならない。排気システムがなければ1週間でガスを除去できたかどうかも疑わしい[部屋は換気システムを持っていたので、ロイヒターの計算をここで適用することはできない。この換気システムの正確な処理能力は知られていないが、焼却棟Ⅰの換気システムは間に合わせのものであったので、焼却棟ⅡとⅢのシステムよりも効率的ではなかったと推定できる。焼却棟ⅡとⅢの換気システムの処理能力は分かっているので、仮説上の換気時間を算出できる。それによると、ガスマスクを着けずに「ガス室」内に入ることができるようになるには、少なくとも34時間かかる(防護服はつけていないが、ガスマスクを着けている場合には少なくとも12時間かかる)、See my expert report, op. cit., pp. 220-227]

 このことは、この部屋が1日に数回ガス処刑のために使われたという話と矛盾している。

 焼却棟Ⅰと「処刑ガス室」の最大処理能力の理論値と実際値は表4にまとめてある。

 

4:焼却棟Ⅰの仮説上の処刑・焼却値

処刑値:1週間94人(仮説)

焼却値:1週間286人(理論上)

焼却値:1週間126人(実際)

 

16:ビルケナウ-焼却棟Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ

 これらの焼却棟を詳細に検討すると次のような情報が得られた。

 

5アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)の焼却棟Ⅱと焼却棟Ⅲ(対称形)の死体安置室Ⅰ(「ガス室」)の平面図[J.-C. Pressac, op. cit. (note 35), pp. 319-329]

a:死体安置室1(「ガス室」)30×7×2.41m

b:死体安置室Ⅱ(「脱衣室」)49.5×7.9×2.3m

c:死体安置室Ⅲ(のちに分割された)

d:死体を地上の炉室に運ぶエレベーター

e:換気口

f:コンクリートの支柱

g:コンクリートの梁

h:のちに付け加えられた地下室への入り口

1-3:ルドルフ報告のためにサンプル1-3が採取された場所

 

6:アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)の焼却棟Ⅱと焼却棟Ⅲ(対称形)の死体安置室(「ガス室」)の立体図[J.-C. Pressac, op. cit. (note 35), pp. 319-329]

    :換気口 ②:吸気口 ③:地面

 

 焼却棟ⅡとⅢはいくつかの死体安置室とそれぞれ15の燃焼室を持つ炉からなる対称型の施設であった。死体安置室は地下に、炉は地上にあった。死体安置室から炉に死体を運ぶにはエレベーターが使われた。掲載した図面は、アウシュヴィッツ国立博物館で手に入れたオリジナル青写真と現場での観察・測量にもとづいている。建物資材は煉瓦、モルタル、コンクリートである。

 調査した区画は、二つの図面で死体安置室1と呼ばれている「ガス室」であった。焼却棟Ⅰと同じように、換気システムも[間違い]、暖房システムも、空気循環システムも、内外からの密閉剤も、さらには焼却棟Ⅱの死体安置室にはドアもない[間違い]。筆者はこの区画を調査したが、ドアやドア枠の証拠をまったく発見できなかった。しかし、焼却棟Ⅲについては、建物の一部が失われているので、そのような裁定をすることができなかった。二つの死体安置室とも、鉄筋コンクリートの屋根を持っているが、はっきりとした穴の痕跡はない。さらに、中空のガス注入柱についての証言は間違っている。すべての柱は、捕獲されたドイツ側図面にもあるように、中空ではない鉄筋コンクリート製である[これは二つの科学的・法医学的研究によって確証されている、 see C. Mattogn, op. cit. (note 132), and M. Mattogno, The Openings for the Introduction of Zyklon B Part 2: The Roof of Morgue 1 of Crematorium II at Birkenau,The Revisionist 2(4) (2004), pp. 420-436]。屋根の換気穴は気密処理されていない[少し前に、ロイヒターは二つの死体安置室とも、鉄筋コンクリートの屋根を持っているが、はっきりとした穴の痕跡はない」と記している。だとすれば、穴のない屋根になぜ換気口があるのであろうか?ロイヒターはこの矛盾を手紙の中で説明し、屋根には換気口などないことを強調している。付録の15図、および、前記の注にある論文を参照]。これらの施設をガス室として使えば非常に危険であり、作業員は死んでしまい、ガスが炉室に達すれば爆発が起こることになる[きわめてありえない。爆発する混合気を生成するには、空気中に60000ppm6%)のHCNが必要であるが、処刑に必要な濃度はそのような数値に達することはほとんどないために、また、炉はガス室からかなり離れたところにある(とくに、焼却棟Ⅱ-Ⅴ)ために、爆発の危険はまったくない]。各施設には2.1m×1.35mの死体搬送エレベーターがある。1つの死体と一人の同乗者だけを載せることができるスペースしかなかった[同乗者は必要ない1.35cmの板に載せることのできる死体の数は一人以上であろう。エレベーターの最大能力が、限界を定めることができるであろう]

 焼却棟Ⅱ、Ⅲそれぞれの「ガス室」の広さは2500平方フィートであった[正しい。210㎡=2257平方フィートほど]1名あたり9平方フィートが必要という説にもとづくと、278名収容できることになる。もしも部屋が必要とされるHCNガス(1000立方フィートあたり0.25ポンド)で満たされ、天井の高さが8フィートで、容積が20000立方フィートであるとすると、5ポンドのチクロンBガスが必要となる[目撃証言が述べているようなスピードで殺戮を行なうには、少なくともチクロンBというかたちでの1520kg3344ポンド)のHCNが必要であったろう。最初の510分間には10%ほどしか放出されないからである。この時間の中で5ポンドのガスを放出させるには、50ポンドのチクロンBを使わなくてはならないことになる]。さらに、(焼却棟Ⅰと同じように)、換気するには少なくとも1週間かかるとする。この換気時間も疑わしいが、処理能力を計算するには役に立つであろう[これらの死体安置室には換気システムがあったので、ロイヒターの計算は間違っている。文書資料に沿った換気能力にもとづいた数値については、前記の注を参照]

焼却棟Ⅱ、Ⅲと「処刑ガス室」の最大処理能力の理論値と実際値は表5にまとめてある。

5:焼却棟Ⅱ、Ⅲの仮説上の処刑・焼却値

焼却棟Ⅱ

処刑値:1週間278人(仮説)

焼却値:1週間714人(理論上)

焼却値:1週間315人(実際)

焼却棟Ⅲ

処刑値:1週間278人(仮説)

焼却値:1週間714人(理論上)

焼却値:1週間315人(実際)

 

 

7:アウシュヴィッツ/ビルケナウ収容所の焼却棟ⅣとⅤ(対称形)の北の側面図(上)と平面図(下)[J.-C. Pressac, op. cit., p. 401]

1: いわゆる「ガス室」; 2: いわゆるチクロンB投下ハッチ; 3: 暖房炉; 4: 石炭室; 5:医務室; 6: 死体安置室; 7: 換気煙突; 8: 下水道; 9: 炉室; 10: 焼却炉

 

 焼却棟ⅣとⅤは対称形の施設であり、それぞれ4つの燃焼室をもつ二つの炉、死体安置室、事務室、倉庫として使用される数多くの部屋から成っていた。内部の部屋は対称形となっていない[ロイヒターの判断は今日の状況にもとづいている。しかし、今日見ることのできる煉瓦建築は、オリジナルのものとはまったく無関係に、戦後建てられたものであるので、この説は正しくない]。いくつかの部屋がガス室として使われたという。建物はかなり昔に崩壊したので、現状から多くのことを確定することはできない。土台や床には密閉剤が使われていた痕跡はない。目撃証言によると、チクロンBの丸薬は、今日では現存していない壁の穴から投げ込まれたという。建物の図面が正しいとすると、これらの施設も、焼却棟Ⅰ、Ⅱ、Ⅲについて述べたのと同じ理由から[特筆すべきは、これらの部屋のうちの二つには暖房ストーブが設置されていたことである。当初の計画では、換気システムは設置されていなかった、See my expert report, op. cit., pp. 135-139]、ガス室ではなかった[発見されている図面はこれらの部屋の使用目的を明らかにしていない]。建物は赤煉瓦とモルタルで、床はコンクリートであり、地下はない。焼却棟ⅣとⅤに焼却・処刑施設が実在していたとは確証されていないことを指摘しておかなくてはならない[これらの建物のガス気密ドアとガス室に触れている文書資料があるが、それは、害虫駆除ガス室のことをいっているにすぎない]

 アウシュヴィッツ博物館から入手した数値、および焼却棟ⅣとⅤの「ガス室」区画についての現場測定、天井の高さ8フィートを勘案すると、見積もりの数値は次のようになる。

焼却棟Ⅳ

1875平方フィート、収容人員209名。15000立方フィート、1000立方フィートにあたり0.25ポンドの割合で3.75ポンドのチクロンBガスを使用。

焼却棟Ⅴ

5125平方フィート、収容人員570名。41000立方フィート、1000立方フィートにあたり0.25ポンドの割合で10.25ポンドのチクロンBガスを使用。

焼却棟Ⅳ、Ⅴと「処刑ガス室」の最大処理能力(1週間の換気)の理論値と実際値は表6にまとめてある。

6:焼却棟Ⅳ、Ⅴの仮説上の処刑・焼却値

焼却棟Ⅳ

処刑値:1週間209人(仮説)

焼却値:1週間385人(理論上)

焼却値:1週間168人(実際)

焼却棟Ⅴ

処刑値:1週間570人(仮説)

焼却値:1週間385人(理論上)

焼却値:1週間168人(実際)

 

 ブンカーⅠ、Ⅱとも呼ばれる赤い家と白い家はガス室としてだけ使われていたという話であるが、この建物について入手しうる見積もり数値の情報がない。

 

17:マイダネク

 マイダネクにはいくつかの興味深い施設がある。現在では取り除かれているオリジナルの焼却棟、再建された「ガス室」付きの焼却棟、明らかに害虫駆除室である入浴・害虫駆除建物2、シャワー室・倉庫「実験的COHCNガス室」を備えた入浴・害虫駆除建物1である。

 現在では取り除かれている最初の独立した焼却棟については前述した。入浴・害虫駆除建物2は中に入ることはできないが、窓越しの調査では、ビルケナウの害虫駆除施設と似た害虫駆除施設にすぎなかった。再建された焼却棟と「ガス室」についても、すでに検討したが、もう一度手短に考察しておこう。炉は、再建されていないオリジナル施設の一部にすぎない。建物の基本は、マイダネクのその他の施設(実験的ガス室は除く)と同じく、木造のようにみえる。しかし、丹念に観察してみると、建物の大半は、収容所の他の施設とは異なって鉄筋コンクリート製であることが分かる。「処刑ガス室」は、HCNガスを満たす手段をまったく持たない焼却棟と隣り合っている。

 建物は密閉されておらず、「ガス処刑」という目的のためには役に立たないであろう。現存していないオリジナル計画に沿って再建されたとの話であるが、この建物は物理的には、せいぜいいくつかの死体安置室を備えた焼却棟にすぎないように見える。それは、すべての部屋の中で、もっとも小さく、もっとも重要でない「ガス室」である。

 入浴・害虫駆除建物1にある害虫駆除/倉庫区画は、内部を木造の壁とドアで仕切られたL字型の部屋である。容積7657立方フィート、面積806平方フィートである。漆喰の壁、梁、気密されていない二つの屋根の換気口がある。空気循環システムが存在しているが、吸気口と排気口が隣接しているという不適切な設計である。鉄シアン化物が作り出したにちがいない青いしみが壁の表面を覆っている。そのデザインからしても、この部屋は害虫駆除室か、害虫駆除資材の倉庫であったと思われる。ドアにはガスケットがつけられておらず、気密用に設計されていない。部屋は内・外から密閉剤によって密閉されていない。この建物内部には、ずっと封印されている区画がいくつかあり、筆者はそれを観察することができなかった。この部屋は明らかに処刑ガス室ではなく、前述したような基準にも合致していない。図面参照。

 この部屋が処刑ガス室として使われたとすると、せいぜい90名を収容できるだけであり、2.0ポンドのチクロンBガスが必要となる。換気時間は少なくとも1週間であろう。最大処刑値は1週間90人である。

 入浴・害虫駆除建物1にある「実験的ガス室」は粗雑な木造の建物で主な施設と結びつけられている煉瓦の建物である。この建物の三方はコンクリートのくぼんだ通路で囲まれている[このくぼんだ通路がオリジナルなものであるのか、戦後に付け加えられたものであるのか定かではない。しかし、HCNはその他の毒ガスの大半とは異なり、空気よりも少し軽いので、このような場所に堆積してしまうことはありそうもない]。二つの部屋、目的不明の区画、コントロール室があり、後者には二つの金属ボンベが置かれており、そこには、二つの部屋にパイプを介して送り込まれる一酸化炭素が入っていたという。おそらく気密用のためのさねはぎのついた4つの金属製ドアがある。ドアは外開きであり、二つの機械式のラッチと閉じ棒で固く締められる。

 4つのドアすべてにのぞき穴があり、二つの内扉には室内の空気を検査するための検査シリンダーがついている[おそらく温度計用。少なくとも部屋の一つには、温風害虫駆除用の暖房器が設置されていたからである]。コントロール室には6インチ×10インチほどの窓――水平垂直に鉄筋コンクリートで補強されているが、窓ガラスがはまっているわけではなく、ガス気密にもなっていない――と部屋2への開口部が付いている。図面参照。二つのドアは部屋1の方に開いている、一つは前方、一つは後方、外側に。一つのドアは前方で部屋2の方に開いている。残りのドアは部屋2の後ろにある目的不明の区画の方に開いている[この部屋の外側にはチクロンBを投入する手段、あるいは換気する手段がない。だから、処刑目的に使われたとはまったく考えることはできない]。二つの部屋にはともに一酸化炭素のためのパイプ・システムがあったとの話であるが、部屋2では、作業がまったく終わっていないために、不完全である。部屋1の配管は完了しており、部屋の二隅のガス口のところで中断している。部屋2には屋根の換気口の跡があるが、屋根を穿って開いているのではないようである[チクロンBは穴から投げ込まれたという話になっている。この穴のふたをする装置がない。この建物屋根はオリジナルな状態ではない]。部屋1は空気暖房循環システムを備えているが、(吸気口と排気口が隣接しているために)その設計は適切ではない。また、換気装置がない。

 壁は漆喰で、屋根と床はコンクリート敷きであるが、どれも、内側も外側も密閉されていない。建物の小部屋のような形で二つの暖房空気循環器が設置されている。一つは部屋31用に、もう一つは入浴・害虫駆除施設の何らかの部屋用であるが、(図面参照)、いずれもその設計は適切ではなく、換気/排気設備をまったく備えていない。部屋1の壁には特徴的な青い鉄青のしみがある。建物は暖房されず、湿っている[空気暖房循環装置を備えた部屋は例外]

 一見すると、これらの施設の設計は適切に見えるが、処刑ガス室や害虫駆除室の必要基準を満たしていない。まず、建物の表面の内側も外側もまったく密閉されていない。第二に、くぼんだ通路はHCNガスの溜り場になってしまう可能性があり、建物を危険にさらす[このくぼんだ通路がオリジナルなものであるのか、戦後に付け加えられたものであるのか定かではない。しかし、HCNはその他の毒ガスの大半とは異なり、空気よりも少し軽いので、このような場所に堆積してしまうことはありそうもない]。部屋2は完成しておらず、おそらく使われなかった。配管は完成しておらず、換気口が屋根にあけられていない。部屋1が一酸化炭素であれば稼働するかもしれないが、換気が貧弱なために、HCNでは稼働しない[この施設はまさにHCN害虫駆除室であったので、そのために使われたことを青いしみが証明している]。暖房/空気循環装置の設置は不適切である。換気口も煙道もない。

 それゆえ、部屋1と部屋2は処刑ガス室として使われたことはなかった、使うことはできなかったというのが筆者の最良の技術的見解である。マイダネクの施設のどれ一つとして、処刑目的にふさわしくなく、そのようなものとして使われたことはなかった。

 部屋1の面積は480平方フィート、容積は4240立方フィートであり、54名を収容し、チクロンBガス1ポンドを使う。部屋2の面積は209平方フィート、容積は1850立方フィートであり、24名を収容でき、チクロンBガス0.5ポンドを使う。最大処理能力(1週間の換気)の理論値と実際値は表7にまとめてある。

 

7:マイダネクの仮説上の処刑値

部屋11週間54

部屋21週間24

 

18:統計数値

 表8にまとめられている統計数値は本報告のために作成されたものである。ガス室が実在した(実際にはそうではなかったが)と仮定したうえで、各施設の24時間、一週間=7日間の処理能力と必要とされるチクロンBの量に関する数値である。

 

Source re. operational periods of crematorium: Hilberg, Destruction of the European Jews, 2nd ed. 1985

 

 その他の「処刑施設」――ヘウムノ(ガス車)[See I. Weckert, What Was Kulmhof/Chelmno?,The Revisionist 1(4) (2003), pp. 400-412試訳:クルムホフ・ヘウムノ収容所をめぐる諸問題(I. ヴェッカート)]、ベウゼック[See C. Mattogno, Belzec, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2004]、ソビボル、トレブリンカ[See C. Mattogno, Jurgen Graf, Treblinka, op. cit.試訳:トレブリンカ:絶滅収容所か通過収容所か(C. マットーニョ、J. グラーフ)]その他――ついて特筆すべきは、一酸化炭素が使われたことになっていることである。

 前述したように、一酸化炭素は処刑ガスではないし[目撃証言が述べているように、ディーゼル・エンジンからのものであるとすれば、少なくとも処刑ガスにはなりえない。一酸化炭素は第三帝国の悪名高い安楽死計画では処刑ガスとして使われた]、私見では、ガスが効果を発揮する前に、全員が死亡するであろう。それゆえ、一酸化炭素処刑では誰も死ななかったというのが筆者の最良の技術的見解である。

 

19:結論

筆者は、入手しうるすべての資料を再検証し、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクのすべての現場を検証・評価したのちに、以下の証拠が圧倒的であることを発見した。すなわち、これらの現場のいずれにも処刑ガス室は存在しなかった、検証された現場の「処刑ガス室」は処刑ガス室ではありえなかったし、いまでもありえないし、そのようなものとして機能しなかったし、機能したと真面目に考えることもできないというのが筆者の最良の技術的見解である。

198845日作成、マサチューセッツ州マールデン

フレッド・ロイヒター調査チーム

フレッド・ロイヒター・ジュニア

主任技師

 

20:文献目録

CHEMICAL ANALYSIS 32 SAMPLES Prepared by Alpha Analytical Labs for Fred A.

Leuchter Associates

AUSCHWITZ, CRIME AGAINST MANKIND Auschwitz State Museum, 1988

AUSCHWITZ, 1940-1945 Museum Guide Book Auschwitz State Museum

MAJDANEK, Duszak Auschwitz State Museum, 1985

MAJDANEK, Marszalek State Museum, Auschwitz, 1983

MAPS AND MATERIAL Auschwitz and Majdanek State Museums

DIESEL GAS CHAMBERS, MYTH WITHIN A MYTH, Berg Spring 1984, Journal of

Historical Review

GERMAN DELOUSING CHAMBERS, Berg Spring 1986, Journal of Historical Review

THE HOAX OF THE TWENTIETH CENTURY, Butz, Historical Review Press

ZYKLON B FOR PEST CONTROL DEGESCH Publication

HYDROGEN CYANIDE Dupont Publication, 7-83

MATERIAL SAFETY DATA SHEET Dupont Publication, 8-85

SODIUM CYANIDE Dupont Publication, 7-85

THE MECHANICS OF GASSING, Faurisson Spring 1980, Journal of Historical Review

FLOOR PLANS Krema II, III, IV and V

GERMAN BLUEPRINTS 9-25-41 10-16-44

THE DESTRUCTION OF THE EUROPEAN JEWS, Hilberg Holmes and Meier, New York,

1985

MAJDANEK, Marszalek Interpress, 1986

JOURNAL 2-25-88 through 3-3-88

ASSORTED PHOTOS by Fred A. Leuchter Associates

EIGHT (8) DRAWINGS Krema I, II, III, IV, V Delousing Chamber, Building #1 Experimental

Gas Chambers Unknown Heater Circulator All prepared for this report by H. Miller, Fred

A. Leuchter Associates

PROPOSAL, MISSOURI STATE PENITENTIARY GAS CHAMBER Leuchter, Leuchter

Associates, 1987

ZYKLON B, TRIAL OF BRUNO TESCH, Lindsey Fall 1983, Journal of Historical Review

MAJDANEK CONCENTRATION CAMP, Rajca, Lublin 1983, State Museum

DOCUMENT NI 9912 Office of Chief War Counsel for War Crimes, Zyklon B

SAMPLE LOG 2-5-88 through 3-2-88

Auschwitz State Museum Auschwitz, Poland

    DuPont Head Office USA E.I. du Pont de Nemours & Co. (Inc.)

 

 

21:資料

8:アウシュヴィッツ・ビルケナウで採取されたレンガとモルタルのサンプル分析[省略――歴史的修正主義研究会]

 

9:アウシュヴィッツ博物館のガイド小冊子によるアウシュヴィッツ中央収容所(アウシュヴィッツⅠ、基幹収容所)の図

 

10:アウシュヴィッツ博物館のガイド小冊子によるビルケナウ収容所(アウシュヴィッツⅡ)の図

 

11:マイダネク博物館のガイド小冊子によるマイダネク強制収容所の図

 

12:調査チームH. ミラーによる

アウシュヴィッツ中央収容所焼却棟Ⅰの平面図

 ○内の数字はサンプルが採取された場所

 

13:調査チームH. ミラーによる

アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所焼却棟Ⅱの平面図 

○内の数字はサンプルが採取された場所 

注:4つの「屋根の穴」は存在していない、次頁の資料を参照

 

14:調査チームH. ミラーによる

アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所焼却棟Ⅱの平面図 

○内の数字はサンプルが採取された場所 

注:4つの「屋根の穴」は存在していない、次頁の資料を参照

 

15H. ミラーによる焼却棟ⅡとⅢの「4つの屋根の穴」についてのロイヒターの説明

 

16:調査チームH. ミラーによる

アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所焼却棟Ⅳの平面図 

○内の数字はサンプルが採取された場所 

 

17:調査チームH. ミラーによる

アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所焼却棟Ⅴの平面図 

○内の数字はサンプルが採取された場所 

 

18:調査チームH. ミラーによる

マイダネク収容所入浴・害虫駆除建物1の平面図 

 

19:調査チームH. ミラーによる

マイダネク収容所入浴・害虫駆除建物1害虫駆除翼の平面図 

 

20:調査チームH. ミラーによる

前記資料の害虫駆除室空気暖房・循環装置のスケッチ

 

21:アウシュヴィッツの殺人ガス室であったといわれている場所から採取した壁サンプル、および害虫駆除室から採取した一つの基準サンプルの分析に関する資料集[省略――歴史的修正主義研究会]

 

 

22:殺虫剤チクロンBの使用に関するデゲシュ社のガイド小冊子[省略――歴史的修正主義研究会]

 

 

 

批判的コメント(ルドルフ)

1HCNとチクロンBの物理的、化学的、毒物学的特徴

 室温で無色の液体であるシアン化水素、HCNの物理的特性の多くは水と似ている。このために、HCNは簡単に水に溶解し、湿った表面に吸収される。それゆえ、乾燥した壁よりも湿った壁の方に非常に多くのHCNが蓄積される。コンクリート、セメント、石灰モルタルおよびその他多孔性の建設資材の水分は、気温と湿度に依存しており、1%以下(20℃、湿度60%)から、非常に湿った空気における10%のあいだを変動する[37]。実験によると、このような資材に吸収されるHCNの量は次のような割合である[38]

 

吸収されたHCNの量(mg/㎡)

普通の湿気を含んだ石灰砂――22740.0

乾燥した石灰砂(20℃)―――― 2941.0

 

 われわれの考察にとって、この結果は重要である。ビルケナウの焼却棟Ⅱ、Ⅲの地下の「ガス室」は暖房装置を備えておらず、冷たく湿っていたからである。これとは逆に、ビルケナウの衛生管理施設BW5a5bの害虫駆除室は地上にあり、十分暖房されており、その壁は暖かいと同時に乾燥していたからである。したがって、もしも、壁の水分だけで判断すれば、焼却棟ⅡとⅢの「殺人ガス室」に吸収されるHCNの量は、衛生管理施設BW5a5bの害虫駆除室に吸収される量の10倍ほどになると予想される

 HCNは空気よりの5%ほど軽いが、空気から分離せず、おもに、あらゆるガス分子の熱運動のために上昇する。この点を明らかにするために、空気のおもな構成部分である窒素(78%)はシアン化水素ガスよりも8%重いことを指摘しておかなくてはならない。もしも、シアン化水素ガスと窒素とのあいだに分離が起こるとすると、酸素(15%)は窒素よりも15%も重いので、酸素と窒素とのあいだで分離が起こるはずである。もちろん、そのような分離は起こっていない。だから、シアン化水素ガスの自然発生的分離は空気中では起こらないのである。だが、純粋のシアン化水素ガスの比重は空気よりも5%低いために――15℃での比重の相違――、純粋のシアン化水素ガスが同じ温度の周辺の空気中に放出されると、比重対流が起こりうる。ガスはゆっくりと上昇するが、周辺の空気と徐々に交じり合う。しかし、ここから、シアン化水素はいつも上昇するというのは正しい結論ではない。たとえば、15℃、物理・化学的土台では、65%のシアン化水素以上の濃度は空気中では起こりえない(グラフ1参照)。このような混合気の比重は空気よりも3%ほど低い。さらに、大量の熱量が、シアン化水素の放出によって周辺の空気から奪われる。それゆえ、対応する低い温度での減速された放出に必要なのと同じ熱量が液体HCNに移動するまで、周囲の温度は低下していく。したがって、理論的には、冷たい、少量のHCNを含んだシアン化水素ガスが、周辺の空気よりも比重が高い、すなわち、重いことも理論的にはありうる。

 

グラフ1:気温を関数とする、HCNの蒸気圧

 

 グラフ1は、気温を関数とした空気中のシアン化水素の均衡パーセンテージである。0℃でさえも、パーセンテージンはまだ36%ほどにとどまっている。もしも、パーセンテージが均衡パーセンテージ(いわゆる露点)を超えれば、周辺の物体上でのHCNの凝結が起こる。ここで考察している事例すべてにおいては、短時間で空気中のHCNの濃度が最大の10%に達するのは、HCNを放出する物体(チクロンBという媒体)に近い場所だけに限られるので、壁へのHCNの凝結は起こらないはずである。しかし、毛細管的凝結は例外で、それは、セメント・モルタルのような細かな多孔性の資材に起こりうる[39]。しかし、もっと大規模で生じる建設資材の水の毛細管へのHCNの吸収と比べれば、毛細管的凝結は無視しうる。

 シアン化水素は、641%/vol.の範囲内で、爆発性の混合気を生成する。初期の発火は非常に強力であり、その爆発効果は、ダイナマイトの中の通常の爆発物であるニトログリセリンに匹敵する[40]。ここで考察の対象としているケースでは、6%/vol.以上の濃度となりうるのは、HCNを放出する物体に近い場所だけに限られるので、せいぜい、部分的な爆発を呼び起こすだけである。それゆえ、1947年の関連事件が示しているように、きわめて不適切な高濃度だけが爆発性の混合気を生成しうるにすぎない[41]技術文献によると、適切な濃度と量を正しく使用すれば、実際上、爆発の危険はほとんどない[42]

 チクロンBHCN多孔性の媒体に浸みこませたものである。第二次大戦中にドイツの強制収容所で使われた製品は、一定量のでんぷんを加えた石膏の丸薬だった(製品名Ercco)。文献や文書がチクロンBの量=重さに触れているときには、ふつう、中身のHCNの量=重さを指す。製品全体の量=重さの中で、媒体自体はHCNの量=重さの2倍である。だから、チクロンB1kgとは、1kgHCNプラス約2kgの媒体のことである。

 もともと、チクロンBは毒ガスを瞬時に放出するのではなく、比較的長い時間をかけて放出するようになっている。温度ごとのこの製品の放出特性は、デゲシュ社のR. Irmscher1942年に発表した論文[43]の中に掲載したグラフ2によって示されている。放出は、高い湿度のもとでは「非常に遅れる」。放出されるシアン化水素は、液体HCN、媒体、周辺の空気からかなりの量の熱量を奪い、そのために、製品の温度と気温が低下するからである。気温が露点に達すると、湿気は空気中から媒体に移り、それによってシアン化水素が拘束され、放出速度が非常に遅くなるからである。

 

グラフ2:デゲシュ社のR. Irmscher 論文(1942)による、温度ごとのErcco媒体からのシアン化水素の放出割合とその分布

 

 のちの考察の参考とするために、15℃と低い湿度のもとでは、アウシュヴィッツで使われたチクロンBから放出されたシアン化水素が、最初の5分間で10%30分で50%であったことを覚えておきたい。そして、湿度100%に近い冷たい地下室の中では、放出時間は「非常に遅れた」はずである

 したがって、100%に達していたに違いない焼却棟ⅡとⅢの地下室の湿度は、放出を「非常に遅くした」はずである[44]

 

1.2:化学的特徴

 HCNは、アルカリ環境の下でナトリウムとカリウムのようなアルカリ金属イオンを使って不安定な塩(シアン化合物)を生成する。環境がわずかでもアルカリ性でなければ、この塩は水の影響を受けて解体し、ゆっくりとHCNを放出する。たとえば、赤錆(建設用のセメントや砂に含まれている基本的構成要素)という形で、鉄イオンが存在すれば、HCNは鉄シアン化合物を生成する。それは、非常に安定した物質で、弱酸性の環境にも耐えることができる。

 十分な量のHCNと弱アルカリ環境――石灰モルタルでは数日間か数週間、セメント・モルタルやコンクリートでは数ヶ月か数年間――があれば、これらの鉄シアン化合物はゆっくりと複合原子価鉄シアン化合物、いわゆるプロシアン・ブルーもしくは鉄青に変わる。この青い化合物は、もっとも安定した非有機染料の一つである。

 このプロシアン・ブルーは、前述した化学的な過程をたどって、壁の中にいったん形成されてしまうと、壁が存在する限り存在し続ける。

 ビルケナウの衛生施設BW5a5bは、安い資材を使って建設された。その害虫駆除室の壁の漆喰は石灰モルタルである。これと対照的なのは、地下水にさらされ、そのために、コンクリートとセメント・モルタルを使って建設された焼却棟Ⅱ、Ⅲの地下部分である。コンクリートやセメント・モルタルは数ヶ月か数年間もアルカリ性であるが、石灰モルタルは数日間か数週間、アルカリ性であるにすぎない。それゆえ、焼却棟の壁は害虫駆除室の壁よりもはるかに長期間HCNを吸収し、それを永久に拘束できたはずである[45]

 

1.3:毒物学的特徴

 神経ガスが発明されるまで、HCNはもっとも危険な毒ガスとみなされていた。危険な物質ではあるが、神経ガスのような即死をもたらすわけではない。HCNを使った合衆国での処刑は、被処刑者が高い濃度のHCNガスにさらされても、死亡が確認されるまでには1015分かかることを明らかにしている[46]

 HCNの毒性効果は、体内のすべての細胞の呼吸を麻痺させるという事実にもとづいている。血中の酸素を、細胞壁を介して細胞へ移送することができなくなる。それゆえ、細胞の生体機能は酸素欠乏となり、動物や人間は細胞レベルで窒息する。

 昆虫、とくに昆虫の卵は、温血動物よりもHCNにかなり反応しない。それは、一つには、その大きな抗生(緩慢な代謝作用)によっている。また、致死量の濃度のガスが、どんなに細かいものであっても、すべての隙間、割れ目の中に浸透しなくてはならないという事実にもよっている。すなわち、たとえば、服の縁や皺の中に隠れているシラミを殺すには、その縁や皺すべてに毒ガスが浸透するように燻蒸処理を行わなくてはならない。これに対して、温血動物は、高い濃度のガスにすぐにさらされることになるが、それは、その身体が大きいためではなく、肺を介して呼吸しているためである

 口から致死量のシアン化合物を取り込むこともできれば、皮膚を介して吸収することもできる。口を介した中毒(たとえば、カリウム・シアン化合物、KCNを使った)は、細胞の窒息による筋肉痙攣のために非常な苦痛を伴う。高い濃度のシアン化水素を呼吸によって吸収した中毒患者は、口から取り込んだ患者よりも速く意識を失うけれども、この場合でも、酸素不足による苦痛に満ちた痙攣が生じる。

 1kgの肉体につき1㎎のHCNが致死量と考えられ、致死量ではないHCNは、何らかの悪影響を残さずに、肉体によって除去される。

 湿った皮膚は、HCNをもっと速やかに吸収するので、HCNを扱うにあたっては、汗をかくのを避けるべきことが推奨されている。皮膚から毒を吸収する場合には、6000ppm[47]0.6%/vo.)が危険であり、10000ppm1/vo.)に数分間さらされることは致命的となる[48]

 表9は、研究文献にみられるさまざまな濃度のシアン化水素の毒性効果である[49]

 

9:空気中のさまざまな濃度のシアン化水素の人体に対する毒性効果

2-5ppm:知覚しうる臭気

20-40ppm:数時間後わずかな症状

45-54ppm:深刻なもしくは遅効性の効果なしで30分から1時間我慢しうる

100-200ppm30分から1時間以内で致命的

300ppm:急速に致命的

 

 F. FluryF. Zernikは、200ppm5-10分で致命的となりうる、270ppmは即死となると指摘している。もちろん、この数値は人体実験の結果ではなく、安全の面での最低ラインを設定するための憶測である。これは次のようになる。体重100㎏の人間を殺すには、100㎎のHCNを吸収させなくてはならない(体重1kgあたり1㎎のHCN)。人間の呼吸割合は、1分間に約15リットルである[50]HCNの濃度を0.02%/vol.(約1ℓにつき0.24㎎)とすると、致死量のHCNを吸収するには、約416ℓの空気を吸わせなくてはならない。1分間に15リットルとすると、約30分である。もしも犠牲者が屈強な体であるとすると、これよりも長く生存するかもしれない。しかし、50㎏の痩せた体を想定し、呼吸の割合が、重労働や興奮状態により、1分間で40ℓであったとすると、この人物は5分間で、致命的な208ℓの空気を吸うことになる。こうした数値計算から明らかなのは、安全のガイドラインにあるデータは最悪のシナリオのもとで、小さくて脆弱な人間を守るために設定してあることである。また、文献のなかに登場する「即死」とか「急速な死」というデータは曖昧であり、われわれの研究を進める上で、満足のいくものではない。さらに、このようなデータが指し示しているのは、犠牲者が致死量を吸うまでの時間にすぎず、犠牲者が死ぬまでの時間――長くかかることもしばしばである――ではない[51]

 もしも、想定しうるあらゆる犠牲者の中で、数分以内で、想定しうるあらゆる犠牲者の中のもっとも屈強な人物までを殺さなくてはならないとすると[52]、最低ガイドラインは異なってくるであろう。この場合には、必要な濃度は、上記の数値よりも数倍も高いことになる。この数値を確定できるのは、一連の実験によってだけであるが、もちろん人体実験は不可能である。だから、われわれが入手しうるデータは、前述した合衆国でのHCNによる処刑によって集められたデータだけである。ロイヒターは、合衆国の処刑で使われたシアン化水素の濃度は3200ppmであると述べている。前述したように、この濃度での処刑でも10-15分かかっている。ガスは犠牲者の座っている椅子の下から放出され、すぐに犠牲者の下から立ち昇ってくるために、犠牲者は処刑が始まるとすぐに、おそらく10%/vol.以上の濃度のガスにさらされ、室内にシアン化水素が拡散する結果、速やかに死亡する。

 通常の呼吸は1分間あたり15-20ℓほどであり、処刑中の平均濃度は0.75%/vol.であると想定すると、10分間で1.35-1.8gHCNが吸収されることになる。これは、致死量の10-20倍である。それゆえ、10分以内にガス室内の全員を確実に殺すには致死量の10倍以上の量が必要であると推定することは理にかなっている

  しかし、昆虫やその卵は、少なくとも12時間そのような濃度にさらさないと確実に死なない。ビルケナウの衛生施設BW5a5bの害虫駆除室の設計は劣悪なために、すべてのシラミ、卵を確実に処理するにははるかに長いガス処理時間が必要であろう。だから、ガス処理に半日ひいては丸1日かかったかもしれない。

 

2:害虫駆除室

 HCNを使った害虫駆除プロセス、その適切な技術、ならびに安全ガイドラインは1930年代および1940年代のドイツで開発途上であった[53]。だから、今日の技術・安全基準を、この当時、とくに、緊急事態や資材不足のために間に合わせの方法が必要であった戦時中にあてはめるのは適切ではない

 

23:改築以前の建物5aと(対称型の建物5bHCN害虫駆除翼の平面図。ルドルフ報告のためにBW5bのサンプルが採取された場所は書き入れてある

 

24建物5bの害虫駆除翼の二つの排気口の一つ、現在は装置とはつながっていない。もう一つは、同じ壁のわずかに左側にある。戦後に設置された水道管の端を内側に見ることができる。

 

 ビルケナウの衛生施設BW5aBW5bが私の論点を立証している。図2324を参照。チクロンB害虫駆除に使った区画は、この平面図では「ガス室(Gaskammer)」と呼ばれた大きな部屋であった。この用語は、戦時中のドイツでは害虫駆除室を指す一般的な用語であった。この部屋は、薄っぺらい、ガス漏れ防止措置をほどこしていない屋根、一方の壁に二つの小さな換気ファン、反対の壁に暖房ストーブを備えていただけであった。壁は密閉コーティングを行なわれていない単純な白塗りの漆喰であった。ガスを気化・散布する装置もなかった。利用できないスペースが屋根まで間にあるために、壁、ストーブの通気装置、屋根の隙間へのガスの浸透は大きなものであったにちがいない。ファンにスイッチを入れたときのこの建物の周辺地域への危険は言うまでもない。(部屋にHCNが充満しているときに、ストーブが点火されたかどうかわからないが、そのようなことがあれば、さらに、HCNはロスしてしまい、チクロンBの丸薬が火元に近い場合には、爆発の危険すらあるであろう)。

 

25:アウシュヴィッツの害虫駆除室の木製ドア、ガス気密措置がほどこされており、のぞき穴と金属製の防護網が付けられている。殺人「ガス室」のガス気密ドアもこのようなものであったと考えられている。ひどくもろい錠がついていることに注意[54]

 

 図25が示しているように、アウシュヴィッツの害虫駆除室のドアもやはり間に合わせの仕事である。フェルトのひもで「密閉された」このような木製ドアはガス気密でも安全でもないが、戦時中の深刻な資材不足に直面して、考え出された解決方法だったのであろう。

 

3:殺人ガス処刑

 間に合わせの害虫駆除室を使って大規模な害虫駆除作業が可能であったとすれば、大量殺人ガス処刑においても、同じような間に合わせのやり方が可能であったのではないだろうか?

 これに対する回答はイエスでもあり、ノーでもある。合衆国の処刑ガス室で使われているような安全装置が絶対条件ではなかったとしても、害虫駆除作業と「殺人ガス処刑」とを峻別するようないくつかの要因があるからである。それを以下に指摘しておこう。

 

3.1:犠牲者を閉じ込めること

 

26:ダッハウ収容所の害虫駆除専用室(デゲシュ社製空気循環室)のドア

27:一人用処刑ガス室(合衆国、ボルチモア、1954年、1930年代の技術)のドア

 

 シラミその他の害虫を力ずくでガス室に押し込んでおく必要はないが、人間はそうはいかない。合衆国のガス室のドアは芝居がかった様相をしており(図27参照)、ガスを内部を閉じ込めておくためにそれがぜひとも必要というわけではないけれども、パニック状態の犠牲者を内部に閉じ込めておくには、同じように頑強なドアが必要であったろう。しかし、アウシュヴィッツに設置され、その後発見されたドアはすべて図25のようなものであった。ドアを閉じる簡単な掛け金とドアを固定する二つの簡単な蝶番では、パニック状態にある数百の人々の圧力に耐えることはできないであろう[55]。ダッハウ収容所の害虫駆除室には頑強なドアが使われていたが(図26)、それすらも、アウシュヴィッツの「ガス室」とされた部屋には使われていない。

 

28:アウシュヴィッツの焼却棟Ⅰの死体安置室(下)と炉室(上)の間のスイング式ドア、死体安置室がすでに「殺人ガス室」として使われていたとされる1942410日の図面

29:焼却棟Ⅱ、Ⅲの死体安置室1、いわゆる「殺人ガス室」の両開きドア[56]

 

 アウシュヴィッツの「ガス室」のオリジナル青写真を研究してみると、焼却棟Ⅰ-Ⅲのドアが両開きドアであって、焼却棟Ⅰの場合には、スイング式ドアもあることを発見して驚くであろう(図2829)。両開きドアとスイング式ドアは、死体を出したり入れたりするには好都合である。一方、パニック状態の群衆の圧力に抗したりするには、とくに外開きであるので、両開きドア、とりわけスイング式ドアは不適切である。したがって、焼却棟Ⅰ-Ⅲの死体安置室のドアは、まさに、死体安置室にふさわしいデザインなのである

 

30:マイダネク収容所建物41の部屋Ⅳ(殺人ガス室とされてきたが、実際には害虫駆除室)の窓

 

 図30は殺人ガス室として使われたとされるマイダネク収容所の部屋の窓であるが、このような普通ガラスの付いた窓のある部屋を、ガス処刑用に使うことができるはずがない[57]。犠牲者たちは瞬時にこの窓を壊してしまうからである。また、同じ部屋の二つのドアのうち一つは内開きであり、もう一つは、外開きであるが、今日でも中から開けることができる。これも、まったく馬鹿げている。一体どのようにしたら、犠牲者たちにこの窓を開けて、この地獄から逃れないように説得するのであろうか?

 

3.2:毒の注入と保持

 たとえ、非常に粗雑で間に合わせの害虫駆除室であっても、そこに毒を注入するのは容易である。ガスマスクをつけた作業員が部屋に入って、丸薬をばらまけばよい。チクロンBを缶から出して、温風ファンを使ってHCNを放出・分散させる遠隔操縦装置は1940年から利用可能であり、その利便性は高かったが、そのようなものは必要ない。毒は害虫駆除室内に少なくとも2時間はとどまり、チクロンBがゆっくりとガスを放出するという事実のは歓迎された特徴である。

 しかし、言われているところのガス処刑では、状況はまったく異なる。目撃証言によると、これらの殺戮に要した時間は、数秒間、瞬時、せいぜい10分までであった[58]。同じ目撃証言によると、チクロンBは、屋根の穴(アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟Ⅰ-Ⅲ、マイダネクの各種の部屋)、壁の穴(ビルケナウの焼却棟Ⅳ、Ⅴ、ブンカー)から投下されたことになっている。したがって、チクロンBを分散させ、HCNの気化と拡散をうながす装置はなかった[59]

合衆国のガス室の経験では、犠牲者の近くで致死量をかなり上回るHCNをすぐに放出させても、速やかで確実な処刑には10分以上かかっている。だとすれば、チクロンBたんに部屋に投入しただけで、処刑時間を10分以下にすることができるであろうか?

 これに対する回答は、わずか数分の処刑時間は、言われているところ装置や手順では不可能であるということである。10分ほどで処刑するには非常に高濃度のチクロンBが必要であろう。

 証言を詳細に検証し、それらの証言と、殺人ガス室に使われていたとされる部屋の物理的実態と比較すると、次のような矛盾が明らかとなる。

 

1.    チクロンBが投げ込まれたとされる焼却棟Ⅰ(アウシュヴィッツ)と焼却棟Ⅱ(ビルケナウ)の屋根の穴は実在しなかった。また、目撃証言が言うところの、焼却棟ⅡとⅢの投下装置も実在しなかった

2.    ビルケナウの焼却棟ⅡとⅢの場合、焼却棟の屋根が完成した後に、SSが死体安置室1=「ガス室」の屋根に投入穴を穿ったことになっている。しかし、これらの屋根が製作されている頃は、ユダヤ人の大量殺戮がフル稼働で実施されていたといわれている時期である。このことを考慮すると、この時期にSSが屋根に穴を開けたという説は馬鹿げている。さらに、SSは毒ガスを室内に流し込もうとすれば、死体安置室の換気システムの吸気ダクトを使えば、できたはずである。これらのダクトの上にチクロンBの入った籠を置き、炉の排気ガスからの温風によって、毒ガスを殺人ガス室に送り込めば、はるかにガスを簡便かつ効果的に放出・拡散させることができたはずである[60]。にもかかわらず、どうして、しっかりした部屋の屋根を壊してまで、粗雑な穴を開けなくてはならなかったのであろうか?そのようなことをしなくてはならなかったとはまったく考えにくい。SSがそのようなことを思いつかなかったとすれば、まったく愚かであったというよりない。

3.    チクロンBが投げ込まれたとされる焼却棟ⅣとⅤ(ビルケナウ)の壁の穴は、人の手が届く高さである。チクロンBを投入しようとするSS隊員に対する攻撃を防いだり、投げ込まれたチクロンBの丸薬が投げ返されるのを防ぐためには、これらの穴を鉄格子で守り、人の手が届かないようにしなくてはならない。そして、このような鉄格子は、コンクリートの床にしっかりとアンカーで固定されていなくてはならない。焼却棟ⅣとⅤのコンクリートの床は現存しているが、そのようなアンカーが実在した痕跡はない。だから、そのような鉄格子は設置されていなかったと結論するのが妥当である。同じことは、ビルケナウのブンカーにもあてはまる。

4.    マイダネク収容所建物41(衛生施設「入浴・害虫駆除室1」、図31参照)の部屋Ⅳ=害虫駆除室――殺人ガス室として使われたとされている――の天井の穴は、文書資料によると換気ダクトとして使われていた。しかし、今日の再建された建物では、換気ダクトは取り除かれ、これらの穴はチクロンBの投入用に使われたという話になっている。しかし、これらの穴が換気用に使われなかったとするならば、この部屋を一体どのように換気したのであろうか?一つのドアは部屋の内部に向かって開いているが、犠牲者の死体がドアの前にあるために、開けることが難しくなるだろうし、「自然の通風」――これ自体効果的ではないが――すら不可能となってしまうであろう。もう一つのドアは、内側から開くことができる。だから、最後の犠牲者は死亡する前に、ドアを開いて換気をうながしてしまうであろう。

 

31:ポーランド・ソ連委員会が製作したマイダネク収容所「入浴・害虫駆除建物1」の平面図(Ⅰ-Ⅳ:「ガス室」)[61]

 

5.    マイダネクのその他の部屋の天井には粗雑な穴が穿たれており、鉄筋が取り除かれてもいない。これらの穴はチクロンBの投入のために使われたことになっている(図32参照、図31の部屋ⅠとⅡも同じく)。しかし、これらの穴を閉じる装置がない。この穴は、「博物館」としての目的のために、戦後に穿たれたにちがいない

 

32:マイダネク収容所の新焼却棟、「殺人ガス室」の天井の穴

 

 

6.    マイダネク収容所の中で、チクロンBが使用された法医学的証拠を残していると同時に、HCNを放出し部屋を監視するために使うことのできる温風空気循環装置を備えており、さらに、犠牲者を閉じ込めることのできる頑丈な金属ドアをもつ唯一の部屋(図31の部屋Ⅲ)には、何とチクロンBを投入する装置がない。言い換えれば、SS隊員みずから犠牲者のいる部屋に入って自分の手でチクロンBを散布しなくてはならないのである。まったく漫画的光景である

 

7.    殺人ガス室として使われたとの話になっているマイダネク収容所のその他の部屋の壁には穴があるが、それは閉じることができなかったし、今でも閉じることができない(図33参照、マイダネクの新焼却棟の「ガス室」にはもっと大きな似たような穴があるが、格子は付いていない)。だから、これらの部屋に投げ込まれたチクロンBは、この穴から犠牲者によって投げ返されてしまうであろうし、室内で放出されたガスは建物全体に広まってしまうであろう。ここでガス処刑が行われたというような話をまともに受け取るとすれば、その人の頭を疑うほかない

 

33:マイダネク収容所建物41害虫駆除翼部屋Ⅰの壁にある格子付きの穴(図31参照)

 

 

3.3:犠牲者の死体の除去

 目撃証人が証言しているような短時間(10分以下)で処刑するには、その時間ではチクロンBから放出されるのは全体の10%にすぎないので、大量のチクロンBが使われなくてはならなかったはずである(1.1節参照)。そして、残りの90%は、処刑が終わっても放出され続ける。害虫駆除室であれば、ガス処理が終わった後に、室内に散布されているチクロンBを取り除くことは可能であるが、殺人ガス処刑では、犠牲者の死体の下にチクロンBが入り込んでしまっているので、それは不可能である。さらに、チクロンBは少なくとも1時間以上はHCNを放出し続けるので、チクロンB投入後1時間以内にこの場所を換気したとしても、それは無意味である

 暖められた害虫駆除室であれば、ガス処理された衣服その他の物品がHCNを吸収する能力は限られているが、湿った人体は大量のHCNを蓄積し、これを扱うことは、ガス処理された衣服を扱うことよりもはるかに危険である。また、衣服を害虫駆除室から取り出して棚にかけるのは、数百の死体を殺人ガス室から引き出すこと――重労働――よりもはるかに簡単である。

 特別労務班員は、処刑が終わるとすぐに、もしくは短時間後に死体をガス室から運び出したという話になっている。しかし、「殺人ガス室」の中には換気システムがまったくないものもあれば[62]、死体安置室用の処理能力しかないシステムがあるものある(アウシュヴィッツ・ビルケナウのⅠ-Ⅲ)。だとすると、目撃証人が証言しているように、数分で、せいぜい30分でこれらの部屋をうまく換気することは不可能である。

 言われているところの処刑時間を考慮すると、「殺人ガス処刑」で使われたガスの濃度は1 vol.%であるが、この場合、特別労務班員はガスマスクを着けていなくてはならない。死体運搬は重労働であり、汗をかいた皮膚からの毒ガスの浸透は避けられない。だから作業員はガス室内では保護服を着用していなくてはならないが、このことを証言している目撃証人は一人もいない。この点で、アウシュヴィッツとビルケナウの焼却棟Ⅰ-Ⅲの死体安置室(「ガス室」)の換気システムはほとんど役に立たなかったであろう。室内からの死体の運び出しは、ガス処刑が終わってすぐに始められたことになっており、このような短時間では、重労働を安全に可能にするほど毒ガスを除去することはできないからである。

 もちろん、SSは、特別労務班員がHCNによってガス中毒になったり、その場で死んだりしてもまったく気にかけなかったということは可能である。しかし、この死のマシーンをスムースに稼働させるには労務班員は素早く作業しなくてはならないし、特別労務班員がHCN中毒の症状を呈したという目撃証言もないので、SS隊員が労務班員の生死など気にかけていなかったという説明は、当を得ない。

 それゆえ、ガス処刑に使われたガスの濃度と処刑後の速やかな死体の搬出――保護服はまったく着用していないし、多くの場合ガスマスクすら付けていない――についての目撃証言は虚偽に違いない。

 シアン化水素化合物は接触毒である点にも留意すべきである。だから、特別労務班員が大量の、致死量かもしれないシアン化水素化合物を皮膚に吸収した死体を何時間も運ぶには、保護服を着用していなくてはならない。最後に、これまで述べてきたような濃度のガスが使用されたとすれば、特別労務班員と同じく、看守の健康もリスクにさらされてしまうことになる。

 

4:焼却

4.1:焼却棟

 アウシュヴィッツの焼却棟の能力を考察するにあたって、最初からもう一度検証する必要はない。1990年代初頭から、イタリア人技術者フランコ・ディアナとイタリア人歴史家カルロ・マットーニョがアウシュヴィッツで捕獲された数千のSS側文書資料を分析してきているからである。これらは焼却棟の炉を建設した会社の文書資料である。マットーニョとディアナは、焼却炉の技術と稼働に関する当時の専門文献や商業出版物も分析した。二人はこれらの文書資料にもとづいて、非常に詳しい計算を行った。

 彼らの広範囲にわたる研究の成果をまとめてみよう。

 

10:アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の特徴

 

焼却棟ⅡとⅢ

焼却棟ⅣとⅤ

燃焼室ごとの理論上の石炭消費量

15.5 kg/

11.7 kg/

燃焼室ごとの実際の石炭消費量

22 kg/

16 kg/

1体焼却時間

1時間

1時間

燃焼室の数

30

16

1日最大稼働時間

20時間

20時間

1日最大処理死体数

600

320

稼働日数

888

276

合計最大能力

532800

88320

 

 600000体という合計最大能力値は非常に大きなものに見えるかもしれない。しかし、この数値は理論上の最大値であるために、誤解を招きやすい。実際に焼却された死体の数を見積もる材料となる二つのパラメーターがある。

 その一つは焼却棟に搬入された石炭の量である。19422月から194310月までの完全な文書資料がある(表11参照)[63]

 

11:アウシュヴィッツの焼却棟への月ごとの石炭搬入量

1942

トン

1943

トン

2

22

1

23

3

39

2

40

4

39

3

144.5

5

32

4

60

6

25

5

95

7

16.5

6

61

8

31.5

7

67

9

52

8

71

10

15

9

61

11

17

10

82

12

39

合計

1032.5

平均

30

平均

80

 

 まず、注意してみていただきたいのはまったく驚くべき事実である。中央収容所の6つの燃焼室炉(この当時の唯一の炉)が稼働していた19422月から19432月までの期間、月平均の石炭消費量は30トンほど、1燃料室あたり5トンほどであった。

 19433月に大量の石炭が搬入されているが、それは、この当時稼働しようとしていた焼却棟ⅡとⅣを乾燥させ、前もって暖めるためであった。さらに、この当時ビルケナウでチフスが蔓延していたので、死体が滞留しており、焼却棟はこの期間の初めに間断なく稼働していたためであろう。

 新しい焼却棟が稼働し始めたときに、石炭消費量が2.5倍にしか増えていないことは、燃焼室がほぼ8倍に増えていることを考えると驚くべきことである。さらに、新しい焼却棟は古い焼却棟よりも効率的あったはずなので、すべての作業を請け負わなくてはならなかった古い焼却棟とは異なって、そんなに激しく稼働しなくてもよかったはずである。言い換えれば、SSが作り上げた新しい焼却棟の能力はオーバーキャパシティであり、その能力は使われることはなかったはずである。

 一体の焼却に必要な石炭消費量を20kgとすると[64]、合計で1032.5トンの石炭の搬入量を記した文書資料のある21ヶ月間で、51625体を焼却することができたはずである。そして、この数字は、アウシュヴィッツの死亡者名簿[65]――もちろん「ガス処刑された犠牲者」は含んでいない――に登録されている数の犠牲者を焼却するのに必要な石炭の量と一致している

ビルケナウの新しい焼却棟の能力を算出するもう一つのパラメーターは、炉の耐火煉瓦の耐久性である。ビルケナウの炉を建設したトップフ社は耐火煉瓦の耐久力を3000回の焼却と考えており、それは、この当時の標準の50%増しだった[66]

ビルケナウの焼却棟を稼働・維持させていたのが未熟練で敵意を抱く人々、すなわち囚人たちであることを考慮すると、トップフ社の見積もりは、非常に楽観的な最大値であることがわかる。3000回の焼却が終わると、耐火煉瓦は取り替えられるが、それは、焼却棟全体をオーバーホールするのと同じような費用と時間を必要とした。

アウシュヴィッツ中央建設局の文書資料は、一本の釘やねじも記載するような非常に詳細なものであるが、ビルケナウの焼却棟の炉の耐火煉瓦を取り替える作業が行なわれたことを記載している文書は一つもない。だから、焼却棟の耐久能力の最大値(46燃焼室×3000回=138000体)を超えることはなかったという結論となる。

この数字も、当局があげている「自然」死の数、すなわち、「ガス処刑」その他の大量殺戮行為による死者を除外した数に近い[67]

マットーニョもマイダネクの新焼却棟の最大能力を1100体ほどに見積もっている[68]。これはロイヒターの数字と一致している。この焼却棟が稼働していたのは、わずか1年、1943年夏から1944年夏までの期間にすぎなかった。これもロイヒターのデータと一致している。

 

 

4.2:戸外の壕での焼却

前節での結論を考慮すると、なぜSSは余裕を残した処理能力を持つ焼却棟を使わないで、戸外焼却という別の方法に頼ったという疑問が生じる。戸外焼却は、大量のエネルギーが放熱と対流のために失われてしまうという単純な理由から、炉での焼却よりもはるかに非効率にもかかわらず[69]1944年春と夏に連合軍の偵察機が撮影した航空写真は、この時期に、いわれているところの戸外焼却が行われていなかったことを証明している[70]。しかし、それ以前の年の写真はない。航空写真には古い焼却壕があった跡を残している広い区画は写っていないけれども、大量埋葬地か焼却壕であったに違いないいくつかの区画が写っている(図3435参照)。

 

34(上)と図35(下):航空写真に写っている、チフスの犠牲者を埋めたアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所近くの古い埋葬地

 

 しかし、ロイヒターが的確に指摘しているように、ビルケナウ収容所の建設地は湿地帯であり、数mも掘れば地下水が出てきてしまう。別個に進められた二つの研究が、1941年から1944年には、ビルケナウとその周辺の地下水レベルが地上からわずか数10㎝であったことを明らかにしている。だから、深い壕はすぐに水に浸ってしまう。SSが排水システムを使って収容所の地下水レベルを下げたとしても、このシステムは、1942/1943年に焼却壕があったとされる区画では完成していなかった。しかし、前述の専門的研究によると、1944年に存在した排水システムによっても、収容所の地下水レベルを地下1m以上に下げることはできなかった。

 現実に即して話せば、1942年秋にはビルケナウで戸外焼却が行われていたことは十分にありうる話である。チフスが蔓延していた同年の夏、古い焼却棟は、深刻な煙突の損傷のために数ヶ月間稼働停止していた。数万のチフス犠牲者の死体が埋葬地に埋められたであろうし、その埋葬地の深さは地下水レベルが高いために浅かったであろう。航空写真に写っている長方形の区画がそのような埋葬地であったにちがいない。

 これらのチフスの犠牲者は、地下水の汚染を防ぐために、数週間後もしくは数ヶ月後に掘り返されたはずである。ビルケナウには焼却棟がまだ存在せず、中央収容所の古い焼却棟は稼働停止していたために、収容所当局は、掘り返された死体を戸外で焼却せざるをえなかった

 ビルケナウの新しい焼却棟の計画に関与した設計技師ヴァルター・デヤコ[71]が「特別施設の設置についてブローベルSS大佐と話し合ったこと」に触れている文書がある。この「特別施設」とは戸外での焼却のことであろう。デヤコは「圧搾機」のことにも触れているが、それは燃えつきていない残余物を砕く装置のことだったに違いない[72]

 アウシュヴィッツの標準的な事件史『アウシュヴィッツ・カレンダー』――目撃証言に依拠している――よると、すでに埋められていた死体を掘り起こして焼却することは、1942921日から11月のあいだに行われたことになっている[73]。ホロコースト正史の文献では、パウル・ブローベルは戸外焼却の専門家としてたびたび登場している[74]

ビルケナウのブンカーでのガス処刑と戸外焼却は、1941年から1942年にかけての晩冬もしくは1942年春に始まったという。だから、デヤコが19429月中旬に、「特別施設」の建設計画を学ぶために同じような施設を視察したと述べているのは、時期的に遅すぎる。デヤコの訪問は「ガス処刑」にはまったく関係がない。むしろ、チフスの蔓延がきっかけとなっているのである。

 

5:化学的分析

5.1何を予期すべきか

3619768月、 メーダー・ヴィーゼンフェルトD-96484にあるプロテスタント教会がチクロンBで燻蒸された。その後、青色のしみが漆喰の全面に登場した(図37を参照)

37:シアン化水素によって燻蒸された教会の漆喰にあるインクのような青いしみ。

 

1977年春と夏、ドイツのニーダー・バイエルンのヴィーゼンフェルトにあるプロテスタント教会での奇妙な出来事が、大きな興奮をよんだ。会衆が前年大きな費用をかけて壊れかかっていた教会を修復したが、大きな災難が起こったのである。教会の漆喰の内壁の各所に巨大な青いしみが発見されたのである。教会を修復した専門家が相談を受けたが、壁のしみを化学的に分析しなくては解けないような謎にぶつかった。鉄青が教会の内部全体にしみこんでいた。これについての説明は研究書にはまったくなかった。しかし、一連の出来事を再現することは可能であった。

教会を耐水性のセメント・モルタルで塗りなおした数週間後、聖歌隊ホールの害虫を駆除するために、教会全体がチクロンB(シアン化水素)で燻蒸された。チクロンBから放出されたシアン化水素は害虫を殺しただけではなく、漆喰と化学反応を起こした。チクロンBに含まれていたシアン化水素が、漆喰のなかに12%ほど含まれている酸化鉄と反応し、鉄青を生成したのである。それは何世紀にもわたってよく知られているきわめて安定した化合物である[75]

最近の研究が明らかにしているように、湿った、鉄分を含む漆喰のある場所で、シアン化水素を使った燻蒸によって害虫を駆除しようとした場合、壁に青いしみが出現するという報告は、技術文献ではよく知られている[76]。この反応の必要条件は、燻蒸される漆喰が新しいものであり、かなり湿気を吸収しやすいものであることである。それ以外の場合には、漆喰はすでに古くなっており、固まっているために、そのような作業は、建物や内壁にダメージを与えるものの、青いしみまでは生成しない[77]

 しかし、1920年以降実施されてきた数万の燻蒸消毒において、そのような災難は起こりえなかった。そうでなければ、燻蒸消毒という方法自体がすみやかに放棄されたことであろう。

 それゆえ、上記のバイエルン教会の例は例外なのであろうか。しかし、この教会の事件を例外としたのは、どのような事情なのであろうか?

 1939-1945年、第三帝国の収容所には、数十万人――ユダヤ人、政治犯、犯罪者、「反社会的分子」、戦争捕虜――がまとめて押し込められていた。ここでの疫病の蔓延を防ぐために、疫病の媒介者、とくに人の毛髪にひそむシラミの駆除が行われたが、かならずしも大きな成果をあげたわけではなかった。この駆除作業はとくに、シアン化水素、チクロンBによって行われた。このための専用の部屋が使われたこともたびたびであった。また、普通の部屋に補助装置をつけて、臨時に害虫駆除室として利用することもあった。第三帝国の収容所の大半は終戦時か戦後に解体された。解体されない場合でも、既存の建物が壊されて、建設資材が町の再建のために再利用された。しかし、少数ではあるが、今日でも現存している建物がある。このような建物の内部は図38-45にある。

 

38:ビルケナウ強制収容所建物5b北西部にあるチクロンB害虫駆除施設の内部。背景の右側での壁は、チクロンBHCN)にさらされたために、鉄青によって深い青のしみがついている。左側の壁(のちに付け加えられた)は白く、シアン残余物が存在しない

39:ビルケナウ強制収容所建物5bのチクロンBの害虫駆除施設の外壁。壁に浸透し、鉄と反応した青酸によって深い青に変色している。50年間風雨にさらされても、損傷を受けていない

40:マイダネク強制収容所建物41のチクロンB害虫駆除施設の青いしみ

41:マイダネク強制収容所建物41のチクロンB害虫駆除施設の東側の壁の床の近くのパイプの周囲の青いしみ

42:マイダネク強制収容所の建物41の大きな害虫駆除室の天井にある青いしみ

43:マイダネク強制収容所の建物41の部屋のⅡとⅢにあるチクロンB害虫駆除室の外壁の青いしみ

44:シュトゥットホフ収容所チクロンB害虫駆除室の青いしみ、南のドアからの内部の眺め

45:シュトゥットホフ収容所チクロンB害虫駆除室の青いしみ、東側の外壁

 

 アウシュヴィッツ博物館のために調査を行なったポーランド研究チームの報告からも、アウシュヴィッツ中央収容所の害虫駆除室には青い点があることが分かる。私の知るかぎりでは、青いしみがないのはダッハウ収容所のチクロンB害虫駆除室(デゲシュ社製空気循環室)だけであるが、それは、その壁が、ガスと水の浸透を許さない染料でコーティングされているからである。

 それゆえ、保護されていないレンガが長期にわたって繰り返しシアン化水素にさらされる場合には、煉瓦の上の青いしみは例外的ではなく、よく見られる現象なのであろう。害虫駆除室の中で害虫駆除のためにシアン化水素を大規模かつ長期に使うことが始められたのは、第二次世界大戦の勃発直後のことであった。そして、民族社会主義者の囚人収容所が解体され、チクロンBを製造・販売していた会社(デゲシュ社はIGファルベンAGの子会社であった)が収用され、大戦末期にDDTその他の殺虫剤が発明されると、シアン化水素化合物の大規模な使用はぱったりと停止した。そして、戦時中の民族社会主義者の害虫駆除室でおこった「建物の損傷」の事例について誰も気にかけなかった。ロイヒターが登場するまでは、この問題が浮上することはまったくなかった。

 私の専門家報告の分析結果にもとづいて、鉄青という長期安定性の鉄シアン化合物の形成を促す諸条件をまとめておく。

 

     新鮮なモルタルもしくはコンクリート

     高い湿度

     低温(氷点以上)

     漆喰のなかで石灰よりもセメントの量のほうが多いこと

     高濃度のHCN

     壁が長期にわたって繰り返しHCNにさらされること

 

 ここで、アウシュヴィッツ・ビルケナウの建物の中で「殺人ガス処刑」が行われたとされているときの条件と比べておこう。

 ビルケナウの焼却棟ⅣとⅤならびにいわゆるブンカーには暖房装置も換気システムもなかった。その壁は煉瓦とモルタル、床はコンクリートかセメントであった。焼却棟は新築で、ブンカーは古い農家であった。いわれているところの速やかな処刑を達成するには、害虫駆除ガス処理と同じように大量のチクロンBが使われなくてはならなかった。チクロンBはガス処刑の後でも、取り除かれていないので、少なくとも1時間はガスを放出し続けたことであろう。ドアを開け放つことによる換気は、風や気温にも左右されるが、数日とはいわないまでも、数時間はかかったであろう。このような条件は、貧弱な換気システムしかもっていない間に合わせの害虫駆除室の条件とよく似ており、この害虫駆除室にはすべて、はっきりとした青いしみが残っている。だから、新築の焼却棟には同じようなしみが残っているはずである。一方、古い農家には、もしあるとしても、はるかに少量であろう。

 アウシュヴィッツの焼却棟Ⅰは古い建物だった。その壁は煉瓦、モルタルで、床と天井はコンクリートだった。換気システムは、死体安置室用の間に合わせの装置だった。ここでも、投入されたチクロンBを取り除くことはできない。続く換気には数時間かかったであろう。死体安置室と炉室が隣り合っているために、気温は高かったことであろう。外壁は外側から土で覆われていたので、壁の温度は室温よりもかなり低く、そのために、壁の中で水が凝結したことであろう。そのために、壁は水分を多く含んでおり、HCNを蓄積しがちであった。ただし、漆喰は古いものであったので、もしあったとしても、大量の鉄シアン化物を作り出すことはなかったであろう。

 ビルケナウの新築の焼却棟ⅡとⅢには暖められていない地下の死体安置室があり、壁は煉瓦とセメント・モルタル、床と支柱と天井はコンクリートであった。ここの化学的・物理的条件は、HCNの蓄積と長期安定性の鉄シアン化合物の生成にまったく適していた。すなわち、新築、冷たい、湿気、長期にわたるアルカリ性資材である。HCNを蓄積・変成させる度合いは、そのような化学的反応が生じない害虫駆除施設よりもはるかに高かった。この高い度合いに反する唯一の要因は、壁がHCNにさらされる時間を大きく短縮する換気システムであった。しかし、これとても、鉄青を生成させる化学的・物理的諸条件と相殺されるものであるので、焼却棟ⅡとⅢの「殺人ガス室」には害虫駆除室で見ることができるのと同じ残余物が生成されると考えなくてはならない(表12参照)。

 

 

12:バイエルンの教会、焼却棟の死体安置室、害虫駆除室の比較

場所と特性

教会の漆喰

焼却棟Ⅱ/Ⅲの死体安置室Ⅰ

害虫駆除施設BW5a/b

鉄分

1Weight.-%

1-2 Weight.-%

0.5-5 Weight.-%

漆喰の様式

石灰+セメント

セメント(+石灰?)

石灰

アルカリ性

中期高

中期-長期高

短期高

湿気

比較的高い(耐水漆喰、冷たい、湿気の多い教会)

高い(地下水位よりも低い位置にある、暖められていない地下室、汗の凝結(大量ガス処刑シナリオが信憑性のあるものとすれば))

中程度(外壁のほうが暖められている内部の部屋よりも高い)

漆喰処理と燻蒸処理の間隔

数週間

数週間から三カ月の間(大量ガス処刑シナリオが信憑性のあるものとすれば)

(数週間?)

燻蒸処理の回数と時間

1回、1日以上

(大量ガス処刑シナリオが信憑性のあるものとすれば)>400回、少なくとも1時間

おそらく<400回、数時間

シアン化合物の痕跡(青いしみ

明瞭に存在

なし

明瞭に存在(0.1-1Weight.-%

 

5.2:分析結果

 さまざまな化学的分析の結果をもう一度見ておこう。

 

14: アウシュヴィッツ・ビルケナウの「ガス室」と害虫駆除室の壁のシアン化合物濃度

番号

場所

採取者

c[CN-] mg/kg

1-7
8
9
10,11
13,14
15
16
17-19
20
21
22
23,24
25
26
27
29
30
31

焼却棟Ⅱ、死体安置室1(ガス室)
焼却棟Ⅲ、死体安置室1(ガス室)
焼却棟Ⅲ、死体安置室1(ガス室)
焼却棟Ⅲ、死体安置室1(ガス室)
焼却棟Ⅳ、土台壁の残骸
焼却棟Ⅳ、土台壁の残骸
焼却棟Ⅳ、土台壁の残骸
焼却棟Ⅳ、土台壁の残骸
焼却棟Ⅳ、土台壁の残骸
焼却棟Ⅴ、土台壁の残骸
焼却棟Ⅴ、土台壁の残骸
焼却棟Ⅴ、土台壁の残骸
焼却棟Ⅰ、死体安置室(ガス室)
焼却棟Ⅰ、死体安置室(ガス室)
焼却棟Ⅰ、死体安置室(ガス室)
焼却棟Ⅰ、死体安置室(ガス室)
焼却棟Ⅰ、死体安置室(ガス室)
焼却棟Ⅰ、死体安置室(ガス室)

ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター
ロイヒター

0.0
1.9
6.7
0.0
0.0
2.3
1.4
0.0
1.4
4.4
1.7
0.0
3.8
1.3
1.4
7.9
1.1
0.0

1
2
3

焼却棟Ⅱ、死体安置室1(ガス室)
焼却棟Ⅱ、死体安置室1(ガス室)
焼却棟Ⅱ、死体安置室1(ガス室)

ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ

7.2
0.6
6.7/0.0

3
4
5
6

焼却棟Ⅱ、死体安置室1(ガス室)
焼却棟Ⅲ、死体安置室1(ガス室)
白い農家、土台の残骸
焼却棟Ⅳ、土台壁の残骸

ボール
ボール
ボール
ボール

0.4
1.2
0.07
0.1

32

害虫駆除室B1aBW5a、内側

ロイヒター

1,050.0

9
11
12
13
14
15a
15c
16
17
18
19a
19b
20
22

害虫駆除室B1aBW5a、内側
害虫駆除室B1aBW5a、内側
害虫駆除室B1aBW5a、内側
害虫駆除室B1aBW5a、内側
害虫駆除室B1aBW5a、外側
害虫駆除室B1aBW5a、外側
害虫駆除室B1aBW5a、外側
害虫駆除室B1bBW5b、外側
害虫駆除室B1bBW5b、外側
害虫駆除室B1bBW5a、ドア柱からの木材
害虫駆除室B1bBW5b、内側
害虫駆除室B1bBW5b、内側
害虫駆除室B1bBW5a、内側
害虫駆除室B1bBW5a、内側

ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ

11,000.0
2,640.0/1,430.0
2,900.0
3,000.0
1,035.0
1,560.0
2,400.0
10,000.0
13,500.0
7,150.0
1,860.0
3,880.0
7,850.0
4,530.0

1
2

害虫駆除室B1bBW5b、内側と外側
害虫駆除室B1bBW5a、内側と外側

ボール
ボール

3,170.0
2,780.0

28

焼却棟Ⅰ、洗浄室

ロイヒター

1.3

5
6
7
8
23
24

囚人バラック
囚人バラック
囚人バラック
囚人バラック
囚人バラック
囚人バラック

ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ
ルドルフ

0.6
<0.1
0.3
2.7/0.0
0.3
0.1

25

バイエルンの崩壊した農家からの未処理の煉瓦

ルドルフ

9.6/9.6

濃度は建築資材(煉瓦、モルタル、コンクリート、漆喰)1㎏につきシアン化合物(CN-mgで示されている。10mg/kg以下のシアン化合物数値は不確実であり、12mg以下の数値のサンプルは、シアン化合物のないものとみなされる。2つの数値がある場合には、後者の数値は、別の会社が行なった基準分析の結果である。

 

14の最初の白いブロックは、殺人ガス室として使われたとされている建物もしくは建物の部屋の残骸のサンプルである。その下の灰色のブロックは、チクロンB害虫駆除室の壁のサンプルである。その下の白いブロックは、殺人ガス室でも害虫駆除室でもない建物の壁のサンプルである。

見ての通り、害虫駆除室の濃度はいわゆる殺人ガス室の濃度の千倍にもなっている。

 1990年代に、クラクフのヤン・ゼーン法医学研究所のポーランド人研究チームも一連の分析を行なった[78]。研究者や素人も含めて多くの人々が彼らの分析結果に依拠している。しかし、これらのポーランド人科学者たちは、50年たっても検出できるはずである唯一の化合物すなわち、安定した鉄シアン化合物を検出しないような方法を意図的に使った。だから、ポーランド人たちがそのサンプルの中に、ほとんどシアン化合物を発見できなかったとしてもまったく驚くには値しない(表13参照)。

 

13:さまざまなサンプルの分析結果、mg CN/kg

 

マルキエヴィチたち

ロイヒター

ルドルフ

ボール

分析対象

 

鉄シアン化合物ぬきのシアン化合物

シアン化合物全体

害虫駆除室

0-0.8

1025

1000-13000

2780-3170

「ガス室」

0-0.6

0-8

0-7

0-1.2

 

 

 私は別の研究の中で、まさに上記の理由から、ポーランド人の分析結果が価値のないのものであることを詳しく明らかにすると同時に、彼らがこのような詐術を行なったのは政治的な理由からであることも明らかにした[79]彼らは、害虫駆除室と「ガス室」で同量のシアン化合物を検出することを望んでいたが、適切な分析方法を使うと、そのような結果を得ることができないので、どのようなサンプルでも微量にしか検出できないない方法を選んだにすぎない。このポーランド人たちは、すべてのサンプルに同じような結果が出るような方法を採用した後に、同じような結果は同じような歴史があったことを立証していると厳かに宣言した。すなわち、殺人ガス室も害虫駆除室からも、不安定な微量のシアン化合物が検出されているとすれば、両者が同じようにチクロンBという毒にさらされていたことを立証しているというのである。もちろん、このような議論は馬鹿げている。

 

5.3:分析結果の解釈

 実際には、「殺人ガス室」から採取されたサンプルの分析結果はゼロではない。しかし、ここで検出されたシアン化合物の痕跡は、囚人バラックのようにまれにチクロンBにさらされたような場所、バイエルンの農家や焼却棟Ⅰの洗浄室のようなまったくさらされていない場所から採取されたサンプルにも検出できる。

 もし、微量の痕跡が殺人ガス処刑の証拠であるとすれば、われわれが知らないような、もう一つの「アウシュヴィッツ」、たとえばバイエルンの崩壊した農家――比較のためにサンプルをすぐに取り寄せることができる――が存在したことを意味しているのであろうか。もちろん、そうではあるまい。

 また、私は微量の分析結果をもう一度実験しようとしてみたが、同じ結果は出てこなかった(ルドルフのサンプルの38)。

 分析結果がばらついてしまう原因は、固形サンプルを扱っていることにある。実験に使われた分析方法は、産業汚水から採取されたサンプルのような液体サンプル用に開発されたものである。固形サンプルには被溶解性の組成物が多く含まれているために、液体サンプル用の分析方法を使っても、正確な分析結果が出にくいのである。また、モルタル、セメント、コンクリートに大量に含まれている炭酸塩も、正確な分析を妨げてしまう。この分析方法では、炭酸塩は一酸化炭素に変わってしまい、HCNと一緒にテストチューブの中に持ち込まれ、光学的な方法でシアン化合物の検出が行われている液体の光学的特徴を変えてしまうからである。

 言い換えれば、固形サンプル――とくに壁のサンプル――は、液体サンプルよりもはるかに信頼性が低いということである。だからこそ、通常は、固形サンプルの検出レベルは液体サンプルの検出レベルよりもはるかに高く設定される。

 つまり、この事例では、サンプル資材1kgあたり10mg以下のシアン化合物は信頼できるものではないことを意味する。それゆえ、10 mg/kg以下の分析結果は、「ゼロ」ではないとしても、「意味のないもの」とみなさなくてはならない。

 これまで長々と述べてきたことを簡潔にまとめると、目撃証言が真実であれば、大量のシアン化合物の痕跡が「殺人ガス室」に残っているはずであるが、化学的分析によれば、「まったく意味のない微量のシアン化合物の残余物」が検出されるにすぎない、ということである。

 ここで本稿は終了する。

 

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[1] Fred A. Leuchter, An Engineering Report on the alleged Execution Gas Chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek, Poland, Samisdat Publishers Ltd., Toronto 1988, 195 pp.

[2] Rudiger Kammerer, Armin Solms (eds.), Das Rudolf-Gutachten, Cromwell, London 1993 (www.vho.org/D/rga).

[4] Fred Leuchter, Robert Faurisson, The Second Leuchter Report, Samisdat Publishers, Toronto 1990試訳:第二ロイヒター報告(ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム); Fred A. Leuchter, The Third Leuchter Report, Samisdat Publishers Ltd., Toronto 1990; Fred A. Leuchter, The Fourth Leuchter Report, Samisdat Publishers Ltd., Toronto 1991

[5] M. Weber, Journal of Historical Review, 10(2) (1990), pp. 231-237試訳:M. ウェーバーによる『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』(プレサック)への書評; C. Mattogno, ibid., 10(4) (1990), pp. 461-485; R. Faurisson, ibid., 11(1) (1991), pp. 25-66; ibid., 11(2) (1991), pp. 133-175試訳:R. フォーリソンによる『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』(プレサック)への書評(第一部); A. Butz, ibid., 13(3) (1993), pp. 23-37; Germar Rudolf (ed.), Auschwitz: Plain Facts, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2005.

[6] See the special issue on Leuchter and the Leuchter Report in The Journal of Historical Review, 12(4) (1992), pp. 421-492 (www.vho.org/GB/Journals/JHR/12/index.html#4), esp.: Fred Leuchter, Is there life after persecution? The botched execution, pp. 429-444.

[7] Mark Weber, Probing Look at Capital Punishment Industry Affirms Expertise of Auschwitz Investigator Leuchter,The Journal of Historical Review 17(2) (1998), pp. 34ff.

[8] Stephen Trombley, The Execution Protocol, Crown Publishers, New York 1992, p. 8.

[9] Ibid., p. 98.

[10] Ibid., p. 102

[11] Ibid., p. 13

[12] J.-C. Pressac, Jour J, December 12, 1988, pp. I-X; see also Pressac in: S. Shapiro (ed.), Truth Prevails: Demolishing Holocaust Denial: The End of the Leuchter Report, Beate Klarsfeld Foundation, New York 1990.

[13] On this cf. Paul Grubach, The Leuchter Report Vindicated: A Response to Jean-Claude Pressacs Critique, Journal of Historical Review, 12(4) (1992), pp. 445-473. (www.vho.org/GB/Journals/JHR/12/4/Grubach445-473.html): see also in German: W. Schuster, Technische Unmoglichkeiten bei Pressac, Deutschland in Geschichte und Gegenwart, 39(2) (1991), pp. 9-13 (www.vho.org/D/DGG/Schuster39_2.html).

[14] G. Wellers, A propos du rapport Leuchter les chambres a gaz dAuschwitz, Le Monde Juif, No. 134, April-Juni 1989, pp. 45-53.

[15] Cf. G. Rudolf, Fantasies of a Biochemist, G. Rudolf, Carlo Mattogno, Auschwitz Lies, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2005, pp. 35-43試訳:生化学者ヴェレールの戯言(G. ルドルフ).

[16] H. Auerbach, Institut fur Zeitgeschichte, letter to Bundesprufstelle, Munich, Oct. 10, 1989; Auerbach, November 1989 (no day given), both published in U. Walendy, Historische Tatsache no. 42, Verlag fur Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1990, pp. 32 and 34.

[17] In this regard, see my technical appraisal, first reprinted in Henri Roques, Gunter Annthon, Der Fall Gunter Deckert, DAGD/Germania Verlag, Weinheim 1995, pp. 431-435 (www.vho.org/D/Deckert/C2.html); updated as Institut fur Zeitlegenden in G. Rudolf, Auschwitz-Lugen, Castle Hill Publishers, Hastings 2005, pp. 15-28 (www.vho.org/D/al).

[18] W. Wegner, Keine Massenvergasungen in Auschwitz? Zur Kritik des Leuchter-Gutachtens, in U. Backes, E. Jesse, R. Zitelmann (eds.), Die Schatten der Vergangenheit, Propylaen, Frankfurt 1990, pp. 450-476 (www.vho.org/D/dsdv/Wegner.html, with inserted critique by the present writer).

[19] On this cf. W. Haberle, Zu Wegners Kritik am Leuchter-Gutachten,Deutschland in Geschichte und Gegenwart, 39(2) (1991), pp. 13-17 (www.vho.org/D/DGG/Haeberle39_2.html); G. Rudolf, Ein Sozialoberratschreibt Geschichte, in Rudolf, op. cit., (note 19), pp. 51-69.

[20] 私へのプライベートな話。

[21] J. Bailer, Der Leuchter-Bericht aus der Sicht eines Chemikers, in: Amoklauf gegen die Wirklichkeit, Dokumentationszentrum des osterreichischen Widerstandes, Bundesministerium fur Unterricht und Kultur (eds.), Vienna 1991, pp. 47-52.

[22] Cf. Ernst Gauss (alias Germar Rudolf), Vorlesungen zur Zeitgeschichte, Grabert, Tubingen 1993, pp. 290-293 (www.vho.org/D/vuez); E. Gauss, Chemische Wissenschaft zur Gaskammerfrage, Deutschland in Geschichte und Gegenwart, 41(2) (1993), pp. 16-24 (www.vho.org./D/DGG/Gauss41_2)

[23] Josef Bailer, in B. Bailer-Galanda, W. Benz, W. Neugebauer (ed.), Wahrheit und Auschwitzluge, Deuticke, Vienna 1995, pp. 112-118.

[24] J. Markiewicz, W. Gubala, J. Labedz, B. Trzcinska, Expert Opinion, Prof. Dr. Jan Sehn Institute for Forensic Reserach, department for toxicology, Krakow, Sept. 24, 1990; partially published, e.g. in: An official Polish report on the Auschwitz gas chambers,Journal of Historical Review, 11(2) (1991), pp. 207-216 (www.vho.org/GB/Journals/JHR/11/2/IHR207-216.html)クラクフ法医学研究所報告(試訳と評注)

[25] J. Markiewicz, W. Gubala, J. Labedz, Z Zagadnien Nauk Sadowych, Z XXX (1994) pp. 17-27 (www2.ca.nizkor.org/ftp.cgi/orgs/polish/institute-for-forensic-research/post-leuchter.report).クラクフ法医学研究所報告(試訳と評注)

[26] G. Rudolf, Leuchter-Gegengutachten: Ein Wissenschaftlicher Betrug?, in Deutschland in Geschichte und Gegenwart 43(1) (1995) pp. 22-26 (www.vho.org/D/Kardinal/Leuchter.html); Engl.: Counter-Leuchter Expert Report: Scientific Trickery? (www.vho.org/GB/Books/cq/leuchter.html); summarized in Rudolf, A Fraudulent Attempt to Refute Mr. Death, www.vho.org/GB/c/GR/Fraudulent.html; updated in G. Rudolf, Polish Pseudo-Scientists, in: G. Rudolf, Carlo Mattogno, op. cit. (note 17).

[27] G. Rudolf and J. Markiewicz, W. Gubala, J. Labedz, Briefwechsel, in: Sleipnir, 1(3) (1995) pp. 29-33; reprinted in Herbert Verbeke (ed.), op. cit. (note 26), pp. 86-90 (online Engl.: as note 29) and G. Rudolf, Polish Pseudo-Scientists, op. cit. (note 29).

[28] Richard J. Green, The Chemistry of Auschwitz, May 10, 1998, holocausthistory.org/auschwitz/chemistry/, and Leuchter, Rudolf and the Iron Blues, March 25, 1998, holocaust-history.org/auschwitz/chemistry/blue/, with considerable proselytizing anti-fascist bias.

[29] A detailed description of the deficiencies of the paper appeared in Das Rudolf Gutachten in der Kritik, Teil 2,Vierteljahreshefte fur freie Geschichtsforschung 3(1) (1999), pp. 77-82 (www.vho.org/VffG/1999/1/RudDas3.html); Engl.: Some considerations about the Gas Chambers of Auschwitz and Birkenau, www.vho.org/GB/c/GR/Green.html.

[30] Richard J. Green, Jamie McCarthy, Chemistry is Not the Science, May 2, 1999, holocausthistory.org/auschwitz/chemistry/not-the-science/. 論文の50%ほどが、政治的批判と中傷である。For a response, see G. Rudolf, Character Assassins, www.vho.org/GB/c/GR/CharacterAssassins.html: R. Greens response to this, Postscript to Chemistry is not the Science: Rudolfs Character Suicide (www.holocaust-history.org/auschwitz/chemistry/notthe-science/postscript.shtml), was again filled with political polemics and evasions of the core issues; see G. Rudolf, Dr. Richard Greens Evasions, www.vho.org/GB/c/GR/Evasions.html. See also G. Rudolf,Green sees Red, in: G. Rudolf, Carlo Mattogno, op. cit. (note 17).

[31] Pelt Report, introduced in evidence during the libel case before the Queens Bench Division, Royal Courts of Justice, Strand, London, David John Cawdell Irving vs. (1) Penguin Books Limited, (2) Deborah E. Lipstadt, ref. 1996 I. No. 113 (www.holocaustdenialontrial.com/evidence/van.asp)

[32] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and operation of the gas chambers, Beate-Klarsfeld-Foundation, New York 1989 (http://holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-andoperation/pressac0011.shtml).

[33] Cf. G. Rudolf, Gutachter und Urteilsschelte, Vierteljahreshefte fur freie Geschichtsforschung 4(1) (2000), pp. 33-50 (www.vho.org/VffG/2000/1/Rudolf33-50.html); more exhaustively, in English, www.vho.org/GB/c/GR/RudolfOnVanPelt.html and /CritiqueGray.html. See also G. Rudolf, Der Pseudo-Architekt, in: G. Rudolf, op. cit. (note 19), pp. 301-346.

[34] Robert J. van Pelt, The Case for Auschwitz. Evidence from the Irving Trial, Indiana University Press, Bloomington/Indianapolis 2002.

[35] 化学的問題をあつかったときには、グリーンの研究にもある程度触れている (ibid., p.365, 499)

[36] For a detail critique of van Pelts flawed arguments in his 2002 book, see Germar Rudolf, Carlo Mattogno, Auschwitz: The Case Against Insanity, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, in preparation (www.vho.org/GB/Books/atcai).

[37] K. Wesche, op. cit. ガスの凝結は、温度が露点以下となると起る。HCNの露点は1 Vol.-%で、何と-93°C (-135°F)である。10 Vol.%であっても、-33°C (-27.4°F)という低温である。例外的に、セメントモルタルのようなきわめて多孔性の資材の場合には毛管現象による凝結が起るが、これも、水の毛管現象がない場合には、起こりえない。だから、ここでは、壁へのHCNの浸透あるいは湿気(水の毛管現象)への吸収(溶解)というのが適切な用語法である。壁の湿気の程度は気温が低いと非常に高くなるので、湿気に吸収されたHCNからの危険も大きくなる。

[38] サンプルは濃度2%HCN24時間以上さらされた。L. Schwarz, W. Deckert, op. cit..

[39] 狭い中空のスペースでの吸収効果による低められた蒸気圧は初期の凝結をもたらす。

[40] Cf. Wilhelm Foerst (ed.), Ullmanns Encyklopadie der technischen Chemie, vol. 5, Urban und Schwarzenberg, 3rd ed., Munich 1954, p. 629.

[41] How to get rid of termites,Life, Dec. 22, 1947, p. 31; see also Liberty Bell, 12/1994, pp. 36f.

[42] Willibald Schutz, Explosionsgefahrlichkeit gasformiger Entwesungsmittel, Reichsarbeitsblatt, Teil III (Arbeitsschutz no. 6), no. 17/18 (1943), pp. 198-207, here p. 201.

[43] R. Irmscher, Nochmals: Die Einsatzfahigkeit der Blausaure bei tiefen Temperaturen, Zeitschrift fur hygienische Zoologie und Schadlingsbekampfung, 1942, pp. 35f.; on the history of the development of Zyklon B, see Wolfgang Lambrecht, Zyklon B eine Erganzung, Vierteljahreshefte fur freie Geschichtsforschung 1(1) (1997), pp. 2-5 (www.vho.org/VffG/1997/1/Lambrecht1.html).

[44] 暖房されていない地下室の湿度はもともと高い。大勢の人間が地下に押し込められると、湿度は100%近くとなり、水の凝結が冷たい物体の上で起こるであろう。

[45] HCNの化学的特徴、鉄青の生成反応、その関連要因、この化合物の安定性に関するもっと詳しい考察は、see my expert report, op. cit. (19), pp. 151-189.

[46] See the literature quoted in my expert report, ibid., pp. 11f.

[47] ppmparts per millionのこと。ここでは、1ppmHCNは、1㎥(1000000ml)の空気あたり1mlHCNにあたる。

[48] F. Flury, F. Zernik, Schadliche Gase, Dampfe, Nebel, Rauch- und Staubarten, Berlin 1931, p. 405; see also M. Daunderer, Klinische Toxikologie, 30th suppl. delivery 10/87, ecomed, Landsberg 1987, pp. 4ff.

[49] DuPont, Hydrogen Cyanide, Wilmington, Delaware 7/83, pp. 5f.

[50] Robert F. Schmidt, Biomaschine Mensch, Piper, Munich 1979, p. 124.

[51] M. Daunderer, op. cit., p. 15.

[52] 毒物学者のあいだでは、すべての犠牲者の100%の致死量=LD100として知られている数値。

[53] ゲルハルト・ペテルスが画期的な空気循環システムを発表したのはやっと1940年のことである。

[54] J.-C. Pressac, op. cit., p. 49.

[55] Compare in this regard Hans Jurgen Nowak, Werner Rademacher, Some Details of the Central Construction Office of Auschwitz, in: G. Rudolf (ed.), op. cit. (note 68), pp. 311-372.

[56] J.-C. Pressac, op. cit., pp. 285, 302 (Dec. 19, 1942)

[57] 以下、マイダネクについての記述はすべて、マットーニョとグラーフの研究にもとづいている。(試訳:マイダネク強制収容所(J. グラーフ、C. マットーニョ))、(試訳:マイダネクのガス室(C. マットーニョ))。

[58] 殺戮時間については、たとえば、: Jury Court Hagen, verdict from July 24, 1970, ref. 11 Ks 1/70, p. 97 (5 .); Final Trial Brief of the Prosecution, quoted acc. to U. Walendy, Auschwitz im IG-Farben-Prozes, Auschwitz im IG-Farben-Prozes, Verlag fur Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1981, pp. 47-50 (3 15 in extreme cases); E. Kogon, H. Langbein, A. Ruckerl et al. (eds.), Nationalsozialistische Massentotungen durch Giftgas, S. Fischer Verlag, Frankfurt 1983, ubiquitous (10分までに即死、非常にまれに20); J. Buszko (ed.), Auschwitz, Nazi Extermination Camp, 2nd ed., Interpress Publishers, Warschau 1985, pp. 114 + 118 (数分); H.G. Adler, H. Langbein, E. Lingens-Reiner (eds.), Auschwitz, 3rd ed., Europaische Verlagsanstalt, Cologne 1984, pp. 66, 80 + 200 (数分、10分まで); Hamburger Institut fur Sozialforschung (ed.), Die Auschwitz-Hefte, vol. 1, Beltz Verlag, Weinheim 1987, pp. 261ff. +294 (即死、10分まで); C. Vaillant-Couturier, in: IMT, vol. VI, p. 216 (5 -7 ); M. Nyiszli in: G. Schoenberner (ed.), Wir haben es gesehen, Fourier, Wiesbaden 1981, p. 250 (5 ); C.P. Bendel in: H. Langbein, Menschen in Auschwitz, Europaverlag, Vienna 1987, p. 221 (2分後に犠牲者の叫び声が終わる); P. Broad in: B. Naumann, Auschwitz, Athenaum, Frankfurt/Main 1968, p. 217 (4 ), 1015分後にドアが開かれる: A. Ruckerl, NS-Verbrechen vor Gericht, 2nd ed., C.F. Muller, Heidelberg, 1984, pp. 58f.; K. Holbinger in: H. Langbein, Der Auschwitz-Prozes, Europaische Verlagsanstalt, Frankfurt/Main 1965, p. 73 (1): R. Bock, ibid., p. 74 (ドアが閉じられてから10分間、犠牲者の悲鳴、その後にドアが開かれる); K. Hoblinger, ibid., p. 73 (1 min.); H. Stark, ibid., p. 439 (1015分間犠牲者の悲鳴); F. Muller, ibid., p. 463 (8-10); E. Pyš, ibid., p. 748 (わずか数分後にすぐに換気装置のスイッチが入れられる); K. Lill, ibid., p. 750 (チクロンBの投入後数秒間の叫び声、数分後に熱い煙が煙突から出てくる); transcript of the expert opinion of Prof. Dr. G. Jagschitz, 3rd-5th hearing days of criminal proceedings against Gerd Honsik, April 4, April 30, May 4, 1992, ref. 20e Vr 14184 and Hv 5720/90, District Court Vienna, p. 443 (2-3 ); Dokument 3868-PS, IMT volume 33, pp. 275ff., quoted according to L. Rosenthal, Endlosung der Judenfrage, Massenmord oder Gaskammerluge?, Verlag Darmstadter Blatter, Darmstadt 1979 (2 to 15分(例外的ケース)); R. Hos, in: M. Broszat (ed.), Kommandant in Auschwitz, Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1958 (換気も含めたすべての工程で30; Hans Munch, in G. Rudolf, Auschwitz-Kronzeuge Dr. Hans Munch im Gesprach, Vierteljahreshefte fur freie Geschichtsforschung, 1(3) (1997), pp. 139-190 (2-5分(冬期); www.vho.org/VffG/1997/3/RudMue3.html); Salmen Lewenthal, Hefte von Auschwitz, Sonderheft 1, Handschriften von Mitgliedern des Sonderkommandos, Verlag Staatliches Museum Auschwitz, 1972, p. 155 (突然の沈黙); Dov Paisikovic, in: Leon Poliakov, Auschwitz, Rene Julliard, 1964, pp. 159ff. (3-4), Franke-Gricksch Report, in: J.-C. Pressac, op. cit. (note 35), p. 238 (犠牲者を殺すのに1分、ドアが開くまでさらに1); Rudolf Vrba alias Walter Rosenberg, Alfred Wetzler, ref. M 20/153, Yad Vashem (acc. to War Refugee Board, German Extermination Camps Auschwitz and Birkenau, in David S. Wyman (ed.), America and the Holocaust, volume 12, Garland, New York/London 1990, p. 20 (室内の全員が3分後には死亡); Jerzy Tabeau, in: The Extermination Camps of Auschwitz (Oswiecim) and Birkenau in Upper Silesia (10 quoted according to Enrique Aynat, Los protocolos de Auschwitz. i Una fuente historica? Verlag Garcia Hispan, Alicante 1990); Andre Lettich, Trente-quatre mois dans les Camps de Concentration, Imprimerie Union Cooperative, Tours, 1946 (数秒). Janda Weiss, in David E. Hackett, (ed.), The Buchenwald Report, Beck, Munich 1997, p. 394 (3).目撃証言がもっと長い時間のことに触れている場合、 それは、焼却棟Ⅱ、Ⅲではなく、焼却棟Ⅳ、Ⅴ、ブンカー12、中央収容所の焼却棟のことを言っている。だから、焼却棟ⅡとⅢんでの殺戮は、非常に速やかに行われたとの話になっている。

[59] 焼却棟ⅡとⅢの死体安置室には、ある種の中空の柱があり、そこにチクロンBが投入されたという説がある。この説には文書資料的証拠・物理的証拠が存在していないが、もし存在していたとしても、チクロンBの丸薬を一か所にまとめてしまっているために、HCNの気化と拡散を遅らせてしまうであろう。

[60] もちろん、このようなやり方をすれば、少量のガスが排気口を介してくれの周囲の漏れ出してしまうであろうが、そのような事態は、部屋を喚起した直後にはいつでも起こりうることである。

[61] GARF, 7021-107-9, p. 251.

[62] ビルケナウの焼却棟ⅣとⅤ、いわゆるブンカー、マイダネクの部屋ⅠとⅡおよび新焼却棟の殺人ガス室とされている部屋(図31参照)。部屋ⅠとⅡにはそれぞれドアが一つしかなく、新焼却棟の部屋には外部への穴もない。このことは、換気をすれば、建物全体にガスが充満してしまうことを意味する。

[63] APMO, D-AuI-4, segregator 22, 22a; cf. J.-C. Pressac, op. cit. (note 35), p. 224.

[64] 実際には、中央収容所の古い二重燃焼室炉の石炭消費量は、ビルケナウの新しい焼却棟の石炭消費量よりも幾分か多かった。

[65] Staatliches Museum Auschwitz-Birkenau (ed.), Die Sterbebucher von Auschwitz, Saur, Munich 1995.

[66] R. Jakobskotter, Die Entwicklung der elektrischen Einascherung bis zu dem neuen elektrisch beheizten Heislufteinascherungsofen in Erfurt, Gesundheits-Ingenieur, 64(43) (1941), pp. 579-587, here p. 583.

[67] これに、中央収容所の古い焼却棟の6つの燃焼室の数字=最大24000体を加える。

[68] See C. Mattogno, J. Graf, op. cit. (note 72), pp. 95-117, esp. pp. 100-104, 110-115.

[69] Cf. for this Carlo Mattogno, Combustion Experiments with Flesh and Animal Fat,TR, 2(1) (2004), pp. 64-72. ;see also Heinrich Kochel, Leichenverbrennungen im Freien, VffG, 8(4) (2004), pp. 427-432.

[70] See John C. Ball, Air Photo Evidence, Ball Recource Services Ltd., Delta B.C., 1992 (www.airphoto.com)試訳:航空写真と矛盾している12の「目撃証言」(J. ボール); G. Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2005, chapter 3.4.3. Air Photo Evidence, pp. 210-219.試訳:ホロコースト講義(G. ルドルフ)

[71] Cf. Michael Gartner, 25 Years Ago: A Different Auschwitz Trial, The Revisionist 3(2) (2005), in preparation.

[72] NO-4467; RGVA, 502-1-336, p. 69.

[73] Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse des Konzentrationslagers Auschwitz-Birkenau 1939 - 1945, Rowohlt, Reinbek 1989, p. 305

[74] Gerald Reitlinger, Die Endlosung. Hitlers Versuch der Ausrottung der Juden Europas 1939-1945, Colloquium, Berlin 1961, p. 153; Ernst Klee, Euthanasie im NS-Staat. Die Vernichtung lebensunwerten Lebens,S. Fischer, Frankfurt/Main 1983, p. 372; Raul Hilberg, Die Vernichtung der europaischen Juden. Die Gesamtgeschichte des Holocaust, Olle & Wolter, Berlin 1982, p. 661; E. Kogon, H. Langbein, A. Ruckerl et al. (eds.), op. cit. (note 181), p. 187; Eberhard Jackel, Peter Longerich, Julius H. Schoeps (ed.), Enzyklopadie des Holocaust. Die Verfolgung und Ermordung der europaischen Juden, Argon Verlag, Berlin 1993, vol. 1, p. 10; Martin Broszat (ed.), Kommandant in Auschwitz. Autobiographische Aufzeichnungen des Rudolf Hos, DTV, Munich 1981, p. 162; cf. Dokument NO-4498b.

[75] メーダー・ヴィーゼンフェルトD-96484にあるプロテスタント教会で起こった建物の被害については、G. Zimmermann (ed.), Bauschäden Sammlung, volume 4, Forum-Verlag, Stuttgart 1981, pp. 120f。われわれは、この情報について、ウィーンのW. Lüftl氏、および、ホッホシュタット・アム・マインのK. Fischer氏に感謝したい。フィッシャー氏は、責任ある建築家として被害に責任を負っており、詳細な情報を提供してくれた。それは、E. Gauss (alias Germar Rudolf), "Wood Preservation through Fumigation with Hydrogen Cyanide: Blue Discoloration of Lime- and Cement-Based Interior Plaster", in: E. Gauss (ed.), Dissecting the Holocaust, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000, pp. 555-559 (online: www.vho.org/GB/Books/dth/fndwood.html)からの再掲載である。

[76] E. Emmerling, in: M. Petzet (ed.), Holzschädlingsbekämpfung durch Begasung, Arbeitshefte des Bayerischen Landesamtes für Denkmalpflege (バイエルン州記念物保存局作業帳), vol. 75, Lipp-Verlag, Munich 1995, pp. 43-56.論文に引用されている事例が、ごくあいまいに上述の事例を言及しているかどうかについては、今のところ確定できない。Carl Hermann Christmann 18世紀の修道院が所有していた農家の建物について報告している。それによると、この建物は世俗化されたのちに、農場経営者に売却された。そして、この農場経営者はこれを納屋として使った。ほぼ20年後、ある投資家がこの美しいバロック様式の建物を豪華なレストランに改築した。既存の内部漆喰は修復され、白い塗料が塗られた。しばらくすると、青いしみが白い塗料のうえに現れた。専門家によると、その青いしみは鉄青であった。専門家は、前の所有者が1920年から1940年のあいだに、シアン化水素で建物を燻蒸し、その結果、4050年後に青いしみが現れたと推測した。C.H. Christmann氏の記憶によると、1999713日の個人的な会話より。残念ながら、Christmann氏は情報源を発見することができなかった。この事例に関して、文献が残っていれば、どのようなものでも深く感謝する。

[77] ある事例では、鉄分のない石灰塗料で塗られたばかりの教会を燻蒸すると、シアン化水素化合物の重合によって暗いしみが現れた。D. Grosser, E. Roßmann, "Blausäuregas als bekämpfendes Holzschutzmittel für Kunstobjekte", Holz als Roh- und Werkstoff, 32 (1974), pp. 108-114.

[78] J. Markiewicz et al., op. cit. (note 76); J. Markiewicz, W. Gubala, J. Labedz, Z Zagadnien Nauk Sadowych, Z XXX (1994) pp. 17-27 (www2.ca.nizkor.org/ftp.cgi/orgs/polish/institute-for-forensicresearch/post-leuchter.report).クラクフ法医学研究所報告(試訳と評注)

[79] G. Rudolf, Leuchter-Gegengutachten: Ein Wissenschaftlicher Betrug?, in Deutschland in Geschichte und Gegenwart 43(1) (1995) pp. 22-26 (www.vho.org/D/Kardinal/Leuchter.html); Engl.: Counter-Leuchter Expert Report: Scientific Trickery? (www.vho.org/GB/Books/cq/leuchter.html); summarized in Rudolf, A Fraudulent Attempt to Refute Mr. Death, www.vho.org/GB/c/GR/Fraudulent.html; cf. Germar Rudolf, Polish Pseudo-Scientists, G. Rudolf, Carlo Mattogno, Auschwitz Lies, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, pp. 45-67.論集『アウシュヴィッツの嘘』


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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What is this Jewish carnage really about? - The background to atrocities

アウシュヴィッツでの死亡者は何名か?
ロベール・フォーリソン

ホロコースト修正主義についてのQ&A

Judaism is Nobody's Friend
Judaism is the Jews' strategy to dominate non-Jews.

Jewish Manipulation of World Leaders - Photos 

Elie Wiesel - A Prominent False Witness
By Robert Faurisson


Iraq under Jewish occupation
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アウシュヴィッツの争点
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写真はナチスのユダヤ人絶滅を証明しているか? 
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Hasbara - The Jewish manual for media deceptions

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      U.N.              E.U.

 

The Internet and Israeli-Jewish infiltration/manipulations

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1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

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